音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

アンリ・デスと『テトペッテンソン』

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 大人になっても絵本や児童文学が好きな人は多いですね。大きな本屋さんでは児童書のコーナーが充実していて、親御さんと小さなお子さんが思い思いに試し読みができるように土足禁止のスペースが設けられているところがあります。面白いのは、そんなスペースで靴を脱いだ大人が一人、黙々と絵本に目を通している姿をみかけることです。サン=テグジュペリの言う「 かつて子供だったことを忘れずにいる大人」は、意外に多いんじゃないんでしょうか。
 そんなこんなで、今回は自分が子どもだったことを思い出せて、しかも元気がもらえる名曲をピックアップしましょう。

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 2002年10月から11月までNHKみんなのうた」で放送されていた『テトペッテンソン』を覚えていますか? 
 クリエイティブ・ディレクターで東京芸大教授の佐藤雅彦(1954 - )が作詞。動画はアート・ディレクターの中村至男(1967 - )が手がけた基本デザインをアニメーターが仕上げるという凝りようで、歌は井上順が担当しました。
「誰が曲を作ったの?」
 と思いますよね。
 作曲をしたのは日本人ではありません。アンリ・デス(1940 - )というスイス人のシンガーソングライターなんです。
 それにしても奇妙な歌詞ですよね。
 
 テトペッテンソン
 テトペッテンソン
 テトペッテンソンタントン
 タトペッテンソン
 タトペッテンソン
 タトペッテンソンタントン
 テトペッテンソン
 タトペッテンソン
 トテペッテンソンタントン
 リンシュレカットン
 シュレリンペットン
 タットレペンテンソン
 
 こんな調子で続くんですが、これは佐藤雅彦がフランスから帰国した折、機内放送で流れたアンリ・デスの曲『ステキなドラム(Le beau tambour)』を聴いているうちに浮かんできたものだとか。
 早速、聴いてみましょう。ただし動画は中村至男デザインのオリジナルではありません。代わりにYouTubeにアップされていた可愛らしいパラパラ動画をご覧ください。音吉はオリジナルよりもこちらのほうが音楽に合っているような気がして大好きです。

 愛らしい曲と歌詞に不思議と元気をもらえませんか? 第九でベートーベンに、

 Freude, schöner Götterfunken, 喜びよ、美しい霊感よ
 Tochter aus Elysium.       死後の楽園の娘よ

 と、尻を蹴飛ばされるよりも音吉には余程、ありがたい癒しです。

 では元歌の『ステキなドラム(Le beau tambour)』も聴いてみましょう。

 J'ai reçu plan plan
 J'ai reçu plan plan
 J'ai reçu un beau tambour

 僕にはプラン(×2)があるんだ
 僕にはプラン(×2)があるんだ
 ステキなドラムを手に入れるんだ

 なんて感じの歌詞です。
「ま、なんて可愛らしいんでしょう!」
 と思ってはいけません。なんでドラムが欲しいかといえば、それは家の廊下だろうがご近所だろうが昼夜の別なく叩きまくるのが目的なんですから。

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 アンリ・デス(Henri Dès, 1940 - )は、西欧のフランス語圏で子供たちに絶大な人気を誇るシンガーソングライターです。それも日本の歌のお兄さんみたいに親が我が子に刷り込む人気とは違って、子どもたちが自発的に「仲間」として敬愛する存在なんです。
 日本では分かりにくいことなので、その一例をご覧ください。若き環境活動家のグレタ・トゥーンベリ(Greta Ernman Thunberg, 2003 - )の呼びかけに世界中の人々が応えて創設された「Fridays for Future」という国際草の根運動があるんですが、この活動の一環としてローザンヌで行われた昨年(2019年)『気候変動学校ストライキ(School Strike for Climate)』にアンリが参加した様子です。78才のアンリが手弁当で会場に出向き、気候変動に抗議するティーンを支援しているんですが、若者たちが如何にアンリ老人を慕い、リスペクトしているかが分かります。サイトに飛ぶと動画がいくつかありますが、いちばん初めの動画にアンリと若者たちの様子が収録されています。

 アンリはすんなりと歌手になったわけではなく、高校を中退して様々な職を転々とした後に歌手を目指した苦労人です。1960年前後に歌手を自称するようになったものの、しばらくは鳴かず飛ばずの日々。1964年には結婚し、息子のピエリック(Pierrick Destraz, 1970 - )と娘のカミーユ(camille Destraz, 1975 - )を授かったのがきっかけで、子ども向けの歌を作るようになったのですが、これが当たったんです。1977年に発売した初アルバム『かくれんぼ(cache-cache)』は1985年にゴールド・ディスクを獲得し、彼の人気は不動のものになり、現在に至っています。
 ちなみに息子のピエリックはロック・ミュージシャン兼過激なヴィーガンとして、娘のカミーユは、やはりロック・ミュージシャン兼ジャーナリストとして活躍しています。表現者としてのアンリの子供たちも目が離せません。

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安西腰鼓(安塞老腰太鼓)


 いつのことだったか、どんな番組だったかもロクに覚えていないのですが、NHKのドキュメンタリーか歴史番組だったと思います。オープニング・シーンに総毛立ったんです。中国内陸部の礫漠と思しき荒れ地に、腰に結わえ付けた太鼓を両手に持ったバチで叩きなら乱舞する大集団が忽然と現れる様は圧巻というほかはありませんでした。
 番組をみて随分経っていたか、もうすでにネットが使えたかも定かじゃないんですが、最初に調べたときはまったく引っかかりませんでした。今のように情報量が潤沢ではなかったんだと思います。それが何であるのかを音吉が知ったのも、たかだか数年前のことです。
 安西腰鼓(あるいは安塞老腰太鼓)。それが謎の正体でした。
 中国のほぼ中央に位置し、西安(かつての長安)を省都とする陝西省には、北側に内蒙古自治区と接する荒涼とした地域があるんですが、そこに延安市という200万都市があります。延安市の内蒙古自治区側は安西(安塞)区と呼ばれているんですが、おそらくは秦の時代からこの地で受け継がれてきたのが安西腰鼓なんです。
 安西腰鼓は、安西区と周辺の歴史的・地理的な環境に起源を辿ることができます。

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 安西区は、黄河の支流である延河が黄土高原に刻んだ広大な渓谷を擁する地であり、夷狄から中国本土の北側を守る軍事上の要衝で、歴代の為政者は安西区の方々に兵を駐屯させました。
 兵士たちは剣や弓などの装備の他に、不意の攻撃を仲間に伝えるツールとして太鼓を持ち歩いていました。敵に遭遇した時には太鼓を叩いて敵の存在を知らせ、共闘して戦い、勝利すれば太鼓を叩いてお互いを祝福し合ったわけで、これが安西腰鼓の起源となったというわけです。
 やがて太鼓は軍事的な目的から、人々が神に祈り、豊作を願い、春節を祝うためのものになり、踊りとともに現在のような姿になりました。
 今や腰鼓は安西地区にとどまらず中国全土に広まっていて、2006年には中国の無形文化遺産(遺産番号Ⅲ-13)に登録されています。独特の激しい踊りとドラミングのゆえにもっぱら男性のものとされてきた腰鼓ですが、現在では女性の鼓手も増え、日本でいえばYOSAKOIソーランのように親しまれているようです。
 腰鼓には、戸外を練り歩きながら太鼓を叩き踊るものと、会場で演じるものがありますが、地を蹴り、跳躍し、スピンするという基本は同じです。衣装は様々ですが、バチにつけた赤いタッセルは共通していて、これが見事に躍動感を演出しているんです。

 黄土高原ではありませんが、音吉は二十歳代の時にゴビ砂漠を人民軍の兵隊さんたちと歩く幸運に恵まれたことがあります。もうもうと黄土を巻き上げながら踊り進む腰鼓を観ていると、ゴビの礫漠を渡る乾いた風と土埃の臭いが鮮やかに鼻の奥に蘇ってきます。『砂漠の真珠(1932)』という日本のサイレント映画がありましたが、生きるには真に厳しい荒れ野にあって、まさに腰鼓は『荒野の真珠』であると思います。
 一生に一度でいいからこの目で観、耳で聴きたいものは山とありますが、音吉にとって安西腰鼓はその筆頭です。それも来日公演などではなく、あの荒涼とした礫漠で観てみたいものです。

 

注意:こちらは安西腰鼓についての中国語の書籍です。残念ながら音源は見つかりませんでした。

神々を召喚するガムラン

 世界には無数の民族音楽があります。もっとも民族音楽というコンセプトは、何かスタンダードなものを想定して、それから外れたものが民族音楽と括られているわけで、音吉的には「なんだかなぁ」なんですが。これは大きなテーマなので、改めて別の機会に考えてみたいと思います。

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 さて今回は、そんな民族音楽のひとつであるガムランGamelan)を取り上げたいと思います。
 日本人に大人気のバリ島でガムランが盛んなせいか、ガムランがバリ島に特有の音楽であると思う人は少なからず。実際は、ジャワ島とマドゥラ島、バリ島を中心とするインドネシア全域を始め、マレーシアやフィリピンの一部を含む広域で演奏される打楽器と鍵盤打楽器によるアンサンブルの総称がガムランなんです。
 個々の楽器や奏法については専門的になりすぎるので触れませんが、外せないポイントをざっくりと整理してみたいと思います。
 まず歴史からいきましょうか。

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 ガムランの歴史は非常に古く、ヒンドゥー教と仏教を軸とする大インド圏(Greater India)にインドネシアを中心とする地域が飲み込まれる前に母体となる音楽は成立していたものと思われています。現在、私たちが親しんでいるガムランは、それに歌唱スタイルやワヤンクリット(Wayang kulit, 影絵芝居)などのインド文化が融合したものと考えていいでしょう。
 次にガムランの多様性について整理しましょう。
 先に述べたように、ガムランは広域文化。各地域のガムランがあり、例えばバリ島だけでも数十種類にも及んでいます。
 こうした多様性は楽器の種類や組み合わせの違い、鍵盤打楽器ならではの複雑なチューニングの違い、曲のレパートリーや様式、そして地域ごとに異なる文化上の背景などによって生まれています。ちょっと深堀りしますが、「複雑なチューニング」とは、複数の楽器の調律を微妙にずらすことによって音のうねりを生み出すオンバ(ombak)という手法を用いているという意味です。A音+B音で新たなC音を得るんです。すごい発想ですよね。
 さらに大きな違いをもたらしたのは、ガムランを支える土壌の違いです。
 ガムランには、宮廷の伝統行事のためのものと、一般の人々による冠婚葬祭や他の祝い事に用いられるものがあり、別個の発達を遂げて着た結果として、私たち外国人が聴いてもそれと分かるほど違うものになっているんです。今回は、この違いを楽しんでみたいと思います。
 まず民衆のガムランを聴いてみましょう。バリ州ギャニャール県ウブド郡のプリアタン(Peliatan)村での公演です。途中からダンスも入ります。

 ワヤンクリットとの組み合わせでもご覧ください。現代のワヤンクリットを代表するチェン・ブロン(Cenk Blonk)の公演です。

 次は、宮廷のガムランです。1971年にジョクジャカルタのパクアラマン宮殿で録音されたものです。戸外で鳥たちがガムランに同調するかのように鳴いて幻想的です。 

 最後は見にくい動画なんですが、19世紀末に撮られたものなのでご容赦ください。大変に貴重な映像です。音楽は1991年にブレーメンで開催されたガムラン・フェスティバルのパフォーマンス用に被せたものです。

 聴いてみれば敢えて言うまでもないんですが、大変に複雑で高度な音楽であることが分かります。コテカン(kotekan)という二つのパートを組み合わせると別の旋律が浮き上がるという二項対立的な作音技法が用いられているのはガムランぐらいじゃないでしょうか。
 神々を召喚するために生まれたガムランには精霊が宿るといわれていて、演奏の際には花を飾り、線香を焚くそうです。また演奏者は靴を脱いで精霊に敬意を払わなければなりません。精霊を怒らせると人々に害をもたらすと信じられているからです。
 これを迷信と片付けるのは簡単です。ですが、その「迷信」を信じる人々が崇高な音楽や踊りを生み出し、信じない人々が荒れた文化に沈溺し自然を破壊する現状はどう考えればいいのでしょうか。西欧のルネサンスが開けてしまったパンドラの箱からは人間中心主義が飛び出しました。ガムランが幽玄な響きの奥底からこれに「否」を突き付けているように思うのは、音吉の思い過ごしでしょうか。

 

琴と筝 雅楽の楽しみ

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 和琴(わごん)という楽器をご存知でしょうか? 雅楽の、それも国風歌舞(くにぶりのうたまい)という歌舞で使われ、「むつのを(六つの緒)」という俗称でも呼ばれています。見た目は筝(いわゆるお箏[こと])と似たような格好をしていますが、琴と筝は起源も系統も異なる楽器なんです。どちらにも「こと」と「そう」と読むので、よけいにややこしいんですが。
 琴と筝の違いでいちばん分かりやすいのは、弦の数と柱(じ)と呼ばれる支柱の有無です。
 現在の筝の弦の数は基本13本(17本なんてのもあります)で、琴は6本。琴については、中国二十四史の『隋書』倭国伝に、

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春日権現験記絵』巻二。右上に和琴を立奏する姿が描かれています。

「(倭国には)楽に五絃の琴、笛有り」
 という記述がありますし、沖ノ島からは五弦琴のひな型が出土しています。本土でも関東地方で四弦琴の埴輪が大量に出土していますから、おそらく日本古来の琴は四弦と五弦のものであり、形状から膝にのせて演奏したものと思われます。今でも国風歌舞の『東遊(あずまあそび)』では、琴の首尾(両脇)を二人の人に持ってもらい立奏するという不思議な習慣がありますが、もしかするとこうした名残なのかもしれませんね。
 和琴の記録としては神道五部書伊勢神宮所蔵)の『御鎮座本記』に、
「金鵄命、長自羽命、天の香弓六張を並べ、絃を叩いて妙音を調す(天の香弓[あまのかぐゆみ]という御神木で作られた弓を六張り並べ、6本の絃としたものを 金鵄命[きんしのみこと]と長白羽命[ながしらはのみこと]という神が、弓を叩いて妙なる音を鳴り響かせた)」
 とあるのが最古の記述であるとされています。
 これに対して筝は、唐代にあった十三弦のものが奈良時代に伝来し、和琴と同様に雅楽に用いられるようになりました。江戸時代になって筝が一般の人々のたしなみになると、雅楽の筝を楽筝、そうでないものを俗筝と呼ぶようになり、義爪の形状や音色などに違いが生まれます。

 次に音程を調節する柱(現在では琴柱が一般的な名称)ですが、これは筝にはありますが、琴にはありません。したがって琴は弦を抑えることで音程を決めます。

 では音を聴いていただきますが、先述のように和琴は神楽歌や東遊(あずまあそび)などの国風歌舞のみに用いられるため、残念ながら演奏風景の動画はみつけることができませんでした。神楽歌の音源はありましたので、画像と音源だけでお許しください。尚、和琴は和楽器の中では最も格式が高いものとされていて、位の高い者のみ(宮内庁楽部では楽長)が演奏を許されています。

 

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上が琴。下が筝。

『神楽歌』 演奏は宮内庁式部職楽部です。

 次は楽筝(雅楽で使われる筝)です。

管絃『酒胡子』(双調)。演奏は中村仁美さん。
© KFMA 東京藝術大学小泉文夫記念資料室 | Koizumi Fumio Memorial Archives

 六弦で柱のある琴なのか筝なのか分からないものもありましたが、和琴の基本である菅掻(すががき)と呼ばれる6弦すべてを琴軋(ことさき、和琴用のピック)で一気に撥弦する手法を、筝から弦を減らし(弦を張る穴が13あるため)、琴とみたてて演奏しているものと思われます。間違っていたらごめんなさい。

和琴『菅搔』二齣二返 一松神社さんの提供です。

 最後に『催馬楽(さいばら)』から『山城(やましろ)』をアップします。催馬楽は平安初期の庶民が歌った風俗歌の歌詞を雅楽に取り入れた、言ってみれば楽しむための雅楽です。雅楽というと神事のための音楽と思われがちですが、結構、すそ野が広いんですよ。歌詞と一緒にお楽しみください。

催馬楽『山城』 博雅会の演奏です。

山城の 狛のわたりの 瓜つくり
なよや らいしなや
瓜つくり 瓜つくり はれ 瓜つくり
我を欲しと言ふ いかにせむ
なよや らいしなや さいしなや
いかにせむ いかにせむ はれ いかにせむ
なりやしなまし 瓜たつまでにや
らいしなや さいしなや
瓜たつまでに 瓜たつまでに

 

山城国の狛のあたりで瓜を作る人
[お囃子]ナヨヤ ライシナヤ
瓜作りの人 瓜作りの人 ハレ 瓜作りの人
わたしと結婚したいとと言う どうしよう
[お囃子]ナヨヤ ライシナヤ サイシナヤ
どうしよう どうしよう ハレ どうしよう
(結婚話は)まとまるでしょうか 瓜が熟するまでに
[お囃子]ライシナヤ サイシナヤ
瓜が熟するまでに 瓜が熟するまでに

 

ヴラド・ペルルミュテールとラヴェル

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 人は思わぬところでトンでもない人物に出会っているものです。
 何年であったのかがどうしても思い出せないのですが、おそらくは1970年前後であったと思います。
 木枯らしの吹きすさぶ冬の夜で、コンサートとなれば嬉々として出向く音吉が気後れしてグズるという大珍事が発生。説得されて渋々、行くことにはなったんですが、コンサートホールに着くまでは機嫌の悪かったのなんの。
 というのも音吉は寒いのが大の苦手。雪がコンコンと降ればコタツで丸くなるほうでしたから、真冬の、しかも寒風が街を吹き抜ける夜にYシャツ&半ズボンで出かける(昭和に男の子だった人は分かってもらえますよね)なんて、拷問以外の何物でもありませんでした。
 おまけにピアノ・リサイタルで演目がショパンラヴェルであること以外は曲名も演奏者も分かりませんでしたし。母のお友達が急用で行けなくなり、当日の午後になってペアチケットが我が家に舞い降りてきたのですから仕方がないのですが、当時、サンソン・フランソワ以外はピアニストじゃないと信じ込んでいた音吉には、どこの誰とも分からない「自称ピアニスト」の演奏に価値があるとは思えませんでした(バカでしたねぇ、ホントに)。
 会場に着くと、母が受付に張り出された告知を読んで言いました。
「お客さんが少ないので小ホールに変更だって」
 元から機嫌の悪かった音吉は、
「人気ないピアニストなんだよ。もー最悪っ」
 なんぞと受付のお姉さんが傍にいるのも構わず吠えまくり、険悪なムードが絶頂に達したところで席に着きました。
 しばらくしてステージに現れたのは、小柄で白髪頭のおじいさんでした。柔和な表情で着座すると、しきりに舞台の袖を振り返り、「風が吹いている+寒い」のジェスチャー。会場から笑いが漏れると、「仕方がない」と両手を広げてみせます。
「コメディアンかよ」
 と心の中で悪態をついたんですが、演奏が始まると、音吉は瞬時にピアノの奏でる音に引き込まれていきました。
 一つ一つの音がコロコロと粒になっているのに、それが集まると水のように滑らかなになる不思議。真夏の街を歩いていて、ビルの玄関から漏れ出る冷えた空気に触れたような清涼感。演目が何であったのかも思い出せないのに、あれから半世紀が経った今でも覚えているのは、おじいさんピアニストの指先から生まれる清々しい音の粒子。それは降り注ぐ光のような、しぶきをあげながら流れ下る水のような音楽でした。

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 ヴラド・ペルルミュテール(Vlado Perlemuter, 1904 - 2002)。おじいさんは20世紀に名を刻んだ歴史的なピアニストでした。
 ペルルミュテールは、ショパンの研究と演奏で名高いアルフレッド・コルトー(Alfred Denis Cortot, 1877 - 1962)に師事し、当初はショパンを得意とするピアニストとしての名声を得ました。
 しかし、ラヴェル(Joseph Maurice Ravel, 1875 - 1937)の曲を本人の前で演奏したのを機に、2年間にわたって直々にラヴェルのほぼ全作品について、譜面には書かれていない部分の指示と指導をマンツーマンで受けるという得難い体験をすることになります。
 以降のペルルミュテールは、通常の演奏活動はもちろんのこと、ラヴェル演奏家として、研究者として、そして音楽教育の指導者としての道をひた走りました。ラヴェルの演奏と研究に関してペルルミュテールがどれほどの信頼を集めているかは、たとえば音楽之友社が『ラヴェル ピアノ曲集』全6巻を刊行した際にペルルミュテールの校訂したスコアを採用したことでも分かります。
 では作曲者と継承者の関係を耳で確かめてみましょう。まずラヴェルの演奏で『ソナチネ(Sonatine)』を聴いてみてください。1913年にラヴェルの演奏を記録したピアノ・ロールをウェルテ・ミニョン(Welte-Mignon)自動ピアノで演奏したものです。尚、動画に収録されているのは3楽章のうちの1楽章と2楽章です。なぜ3楽章がないかですって? 理由は意外なもので、当の作曲者も演奏できないほど難解な技巧を要したからです。

 次はペルルミュテールの演奏です。順に1、2、3楽章です。

 どうでしょうか。ラヴェルの意向をしっかりと汲んだうえでプロのピアニストとしての磨きをかけた演奏をしているのがお分かりいただけるかと思います。
 参考までにマルタ・アルゲリッチサンソン・フランソワユリアンナ・アヴデーエワの演奏をアップしておきます。他の聴き比べとは違い、テンポや個性の違いはあっても解釈や構成にそれほどの差がないのがお分かりいただけると思います。あまりクラシックに関心のない方は、
「楽譜があって、その通りに弾いてるんだから差がないのは当たり前」
 と思われるかもしれませんが、誰が弾いてもも大差ない演奏になるのは、クラシックの世界では非常に稀なことなんです。これをラヴェルから受けた指示を忠実に後世に伝えたペルルミュテールの功績なのだと言ったら、言い過ぎというものでしょうか。

 マルタ・アルゲリッチMaria Martha Argerich、1941 - )の演奏

 サンソン・フランソワSamson François, 1924 - 1970)の演奏

ユリアンナ・アヴデーエワYulianna Avdeeva, 1985 - )の演奏

 ペルルミュテールの演奏に接したせいなんでしょうか。元来、性に合っていたからなんでしょうか。それともその両方なんでしょうか。
 今の音吉にとってラヴェルの音楽は、ショパンフォーレメシアンリゲティと同様に、自分の人生にとって欠くことのできない存在です。もしかすると素の自分にとって最も親和性の高い音楽なのではないかとさえ近頃では感じています。
 そんな唯一無二の音楽と音吉を結び付けてくれたのは、音吉が生涯でただ一度、行くのを嫌がったリサイタルの老ピアニストでした。しかもこのおじいちゃんはスーパーマンだったのです。

 

 

アンドレ・マルシャルと『パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582』

 以前に、演奏者と作曲家の文化的な違いが音楽に反映することがあるという投稿をしたことがありますが、今回もそんな類のお話です。

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 アンドレ・マルシャル(André Louis Marchal, 1894 – 1980)というフランスのオルガニストをご存知でしょうか。
 ドイツのヘルムート・ヴァルヒャ(Helmut Walcha, 1907 – 1991)と並んで前世紀を代表する偉大なオルガニストなんですが、録音が古い上に状態が良くないこともあってか、残念ながら日本では一部の熱烈なファンを除いて知名度はそんなに高くありません。
 マルシャルは、シュヴァイツァー博士(Albert Schweitzer, 1875 - 1965)が始めた「新オルガン運動(Orgelbewegung)」のフランスにおける創始者でもありました。
 蒸気や電力を用いて強力な送風装置が開発された19世紀には、パイプオルガンは「シンフォニック・オルガン」と呼ばれる大型で大音量のでるものが数多く製作されるようになりました。出せる音色も多彩となり、オルガンは単体でよりシンフォニック(交響的)な楽器となっていきました。音吉が知る限りでは、宮城県白石市ホワイトキューブにある大林徳吾郎製作のオルガンが唯一のシンフォニック・オルガンだと思います(間違っていたらごめんなさい)。
 これを「行き過ぎ」だとして、ジルバーマン(Gottfried Silbermann, 1683 – 1753)やシュニットガー(Arp Schnitge, 1648 - 1719)に代表されるバロック期のオルガンに立ち返ってオルガンの製作をすべきだというのが、シュヴァイツァーやマルシャルが推し進めた新オルガン運動でした。
 こうした復古主義の下で製作されたのが「ネオバロック・オルガン(Neo-Baroque organ)」で、古いオルガンの研究が進んでいなかった初期にあっては歴史的なオルガンの修復に失敗を重ねたものの、現在では高度な修復や複製の製作、古い製作技術を反映させた新たなオルガンの製作が行われています。匠としてはベケラート(Rudolf von Beckerath, 1907 – 1976)やフレントロップ(Dirk Andries Flentrop, 1910 - 2003)などが代表的な存在です。規模の問題だとおもうんですが、日本のパイプオルガンは、ほぼ100パーセントがネオバロック・オルガンだと思います(これも間違っていたらごめんなさい)。
 面白いことに、一時は新オルガン運動が過剰に推進された結果、今度はシンフォニック・オルガンの表現力が逆に見直されることにもなり、今では用途や規模、演奏作品によって、中世やルネサンス時代のものをも含めたオルガンが使われるようになりました。

  さて、アンドレ・マルシャルに話を戻しましょう。彼には生まれつき全盲というハンディキャップがあったのですが、これをものともせずにパリ音楽院で高名なオルガニストで作曲家のウジェーヌ・ジグー(Eugène Gigout, 1844 - 1925)に師事して研鑽を積みました。そして数々の賞を受賞して世界的に有名なオルガニストとなり、ヨーロッパだけではなく、米国やオーストラリアでもコンサート活動を行う売れっ子となります。
 師であるジグーが優れた即興演奏者であったためか、マルシャルは即興演奏についても比類のない才能をハキします。1913年にフォーレ(Gabriel Urbain Fauré, 1845 - 1924)がジグーの作曲したフーガを評価した時に、
「とてもいい作品です。ですがそれだけではなく、あなたには優れた即興演奏のできる生徒がいますね」
 と、ジグーの指導者としての能力についても賛辞を送ったのですが、この生徒こそアンドレ・マルシャルでした。
 マルシャルの才能には、当時活躍していたオルガニストや作曲家に深い感銘を与えたようで、数々の名作を遺したオルガニストで作曲家のルイ・ヴィエルヌ(Louis Victor Jules Vierne, 1870 – 1937)も、1923年に自分の作品(オルガン交響曲第4番 作品32)を演奏したマルシャルに対して、
「心から感謝します。愛すべき若者よ、あなたは私に深い喜びを与えてくれました。芸術家としての人生にあって最も深い感銘を与えてくれたあなたの演奏を私は、生涯、忘れません」
 と、深い感謝の意を伝え、以来、ヴィエルヌが1937年に急逝するまで、ヴィエルヌとマルシャルは家族ぐるみの付き合いを続けるほどの友情で結ばれました。
 成功と賞賛のうちに生涯を過ごしたマルシャルでしたが、彼の謙虚で飾らない人柄は、音楽家にも、生徒にも、友人にも、そして聖職者にも深い感銘を与えたそうです。
「父との暮らしはシンプルで自然なものでした」
 と娘のジャクリーヌ(Jacqueline Englert-Marchal, 1922 - 2012)が語っているように、マルシャルは謙虚だけれど気難しくなく、飾りっ気のないシンプルさを愛する思索家であったようです。
 聴いていただくのはJ.S.バッハの『パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582』です。とくにバッハを得意としたオルガニストではないのですが、他の演奏家による同局と比較すると、彼の個性が鮮やかに浮き上がるのでこの曲を選びました。
 まず日本でも知名度が高く、マルシャルと双璧を成すオルガニストであるヴァルヒャの演奏を聴いていただきましょう。ヴァルヒャも10代の頃に失明した盲目のオルガニストです。演奏は丹念で淡々としていて、それでいて人の心に深く切り込むパッションを内包しています。


ではマルシャルを聴いていただきましょう。

 どうでしょうか。好みの分かれる演奏であると思います。テンポ・ルバートどころではない自由なテンポ表現はあまりにもフランス的で、普通の演奏を聴き慣れた方には奇異と感じたり、時代がかったものに思えることがあるかもしれません。
 多くのオルガニストが弾くバッハと違うのは演奏スタイルや技巧だけではありません。
 マルシャルのバッハには、全き神への信頼や愛のもたらす平安といった宗教的な匂いがしないのです。とくにこの演奏では、むしろ宗教的な安らぎを拒絶し、苦悩を直視し対峙しているかのようです。有り体にいえば、マルシャルのバッハは哲学的といえるでしょうか。
 もちろん聴衆への媚びは皆無です。全盲のマルシャルが観ていたのは神ではなく、肉体という檻に閉じ込められ、それでいながら完全なる自由を求めざるを得ない実存の、絶えざる痛みと苦しみだったのではないでしょうか。
 もちろんバッハは敬虔なキリスト教徒でした。マルシャルもそうでした。しかしマルシャルがバッハに見出したのが音吉の印象通りに神でなかったとしたら、それは一体、どうしてなんでしょうか。解のない問いには違いありませんが、少なくともバッハの底知れぬ世界の一端をマルシャルが炙り出してくれたのは確かではないかと思うのです。

 

作曲家による自作自演の録音とロウ管蓄音機

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 自作自演というと、なんだか嘘つきのアリバイみたいですが、今回は作曲家が自分の作品を演奏するという本来のお話です。それも19世紀末から20世紀初頭にかけての作曲家が遺した自作自演の録音なんです。
 管の表面にロウを塗ったロウ管(wax cylinder)を機械にセットし、シリンダーを回転させながら表面に音の振動を針で刻むことによって録音し、再生する時はこの音溝を針でトレースしながら音を拡声させるというロウ管蓄音機をエジソン(Thomas Alva Edison, 1847 - 1931)が開発したのは1877年のことです。
 音楽ではありませんが、1877年の記念すべき録音を聴いて頂きましょう。エジソンが『メリーさんの羊』歌詞の一部を朗読しています。文字と照らし合わせて聴いて頂ければ分かりやすいかと思います。
 "The first words I spoke in the original phonograph. A little piece of practical poetry. Mary had a little lamb. Its fleece was white as snow. And everywhere that Mary went, the lamb was sure to go."

 1887年にエミール・ベルリナー(Emil Berliner, 1851 - 1929)が開発したお馴染みの円盤形のグラモフォン(gramophone record)に比べればはるかに音質は悪かったものの、再生だけではなく録音もできたロウ管蓄音機は、今でいえばICレコーダーのような記録媒体として、主にアメリカで高い人気を誇っていました。
 手軽に音を保存できる機械となれば音楽に携わる人々が放っておくはずもなく、新しいもの好きの音楽家の中には自作曲の自演をロウ管蓄音機で録音する人がチラホラと現れるようになります。
 現存しているものでいちばん古いのは1889年のブラームスJohannes Brahms, 1833 - 1897)によるもので、本人の肉声とハンガリー舞曲(Ungarische Tänze)第1番が録音されています。声は辛うじて聞き取れますが、音楽のほうは残念ながらほとんど聞こえません。

 次は1890年に録音されたチャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky, 1840 - 1893)とアントン・ルービンシュタイン(Anton Grigoryevich Rubinstein, 1829 - 1894)の肉声です。ただこの録音には他に4人の声も入っていて、いったいどれがチャイコフスキーのものかが残念ながらよく分かりません。

 20世紀に入るとロウ管も改良が進み、硬質ワックスやセルロイド管などが開発されると、音質が飛躍的に向上することになります。1904年に録音されたサン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns, 1835 - 1921)の自作自演を聴くと、音質の差に驚かされます。曲は『かわいいワルツ(Valse mignonne)op.104』と『のんきなワルツ(Valse nonchalante)op.110』です。


 さらに10年の月日が流れた1913年には、ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862 - 1918)とフォーレ(Gabriel Urbain Fauré, 1845 - 1924)が自作を録音しています。曲は、ドビュッシーがベルガマスク組曲(Suite Bergamasque) の『月の光(Clair de Lune)』、フォーレは『パヴァーヌ(Pavane op.50)』です。

 最後は1922年録音のラヴェル(Joseph Maurice Rave, 1875 - 1937)に締めくくってもらいましょう。曲は『亡き王女のためのパヴァーヌ(Pavane pour une infante défunte)』です。