音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

ブクステフーデ『シャコンヌ ホ短調 BUXWV 160』

 音楽の好みは人それぞれ。親子といえども好きな作曲家や演奏者が一致するのは稀なことです。
 音吉の家族もそうで、バロック音楽に限っていえば、父はJ.S.バッハ、母はパーセル、そして音吉はラモーと、てんでバラバラでした。

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 それでも例外はあるもので、唯一、3人が一致して好きだった作曲家がいます。デンマーク生まれのディートリヒ・ブクステフーデ( Dieterich [Dietrich] Buxtehude, 伝1637 - 1707)です。
 1600年代から1700年代の前半にかけて、バルト海沿岸地域やプロイセンを含む北ドイツで活躍した作曲家とオルガニストは「北ドイツ・オルガン楽派(Norddeutsche Orgelschule)」と呼ばれているんですが、ブクステフーデはその代表格です。
 1517年にルター(Martin Luther, 1483 - 1546)が95ヶ条の論題(95 Thesen)を掲げて始まったキリスト教宗教改革は1600年代にはドイツ語圏の諸都市に波及し、各地のプロテスタント教会にはパイプオルガンが次々に設置されていきました。
「音楽とは神を讃えるに相応しい恩寵である」
 とするルターの立場に沿った在り方だったのですが、当時、音色を様々な音に変えるストップと呼ばれる仕組みが飛躍的に発展したパイプオルガンは、教会建築と典礼音楽への親和性の高さゆえに、神を賛美する絶好のツールだったといえます。もちろん労働に価値を置いたプロテスタンティズムが結果的に経済の繁栄をもたらしたことも、この恐ろしく高価な楽器が普及する一因となりました。

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 ドイツを疲弊させた三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg, 1618 - 1648)にあって、北ドイツでは一部の都市を除く諸都市が中立を保ち、致命的な被害を被らずに繁栄を謳歌することになりました。その結果、北ドイツはアルプ・シュニットガー(Arp Schniter, 伝1648 - 1719)のようなバロック・オルガンの名匠を輩出する地となり、オルガン音楽の作曲家や優れた演奏家ハンブルグなどの主要都市を拠点として活動するようになります。
 ちなみにシュニットガーは、生前に105基のオルガンを新造し、他にも60基の改造と修復を行っています。現在も演奏できるオルガンは30基ほどですが、彼一人の仕事をみても、当時、いかに多くのオルガンが製造されたのかがよく分かります。

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先の大戦で焼失する前のリューベックの聖マリア教会

 ブクステフーデの幼少期については分かっていないことが多いのですが、当時はデンマーク領だった都市ヘルシンボリ(Helsinborg, 現在はスウェーデン)の教会オルガニストを務めていたことがから、彼の地が出生の地であると考えられています。
 戦禍の爪痕が残したヘルシンボリの荒廃で将来が見通せなかったブクステフーデは、1668年に北ドイツの都市リューベック(Lübeck)に移り住み、マリア教会(St. Marien zu Lübeck)の専属オルガニストとなります。
 教会オルガニストとしての仕事は日々の日課をこなす程度だったこともあってか、亡くなるまでの40年間にわたって、ブクステフーデはアーベント・ムジーク(Abendmusik, 夕べの音楽)と呼ばれる市主催の市民向け無料コンサートの企画・運営に尽力するようになります。音吉の想像ですが、これが教会音楽の枠を超えた魅力をブクステフーデに与えたのではないかと思っています。
 誠実な人物だったようで、ブクステフーデの逝去に際して当時のリューベック市長ペーター・ヒンリッヒ・テスドルプフ(Peter Hinrich Tesdorpf, 1648 - 1723)は、

「亡きブクステフーデが私に天国のような憧れを予感させてくれた。彼は聖マリア教会におけるアーベントムジークに大いに力を尽くした」(全音楽譜出版社刊『季刊リコーダー』第54号 山下道子「ルネサンスバロックの作曲家たち17 ディートリヒ・ブクステフーデ」より)

 と追悼していますが、彼の音楽は人柄を象徴しているかのように清らかで気負いがありません。バッハのように構築的ではなく、むしろ時の感情を率直に表現するチャーミングでシンプルな曲想が彼の持ち味だと思います。これはコペンハーゲンの宮廷楽士長で歌手でもあったイタリアの音楽に造詣の深かったカスパル・フェルスター(Kaspar Förster, 1616 - 1673)の影響だということですが、音吉もこの説には説得力を感じます。
 「(バッハ+パーセル+ラモー)÷3≒ブクステーフーデ」とは、乱暴ながらも、こと音吉と父母にとっては限りなく正解に近い解だったのかもしれません。

シャコンヌ ホ短調 BUXWV 160』。演奏はフランスの名オルガニストジョルジュ・ジラール(Georges Guillard, 1939 - )です。思索的でありながら、聴く者の感情に直裁に訴えかける力に満ちています。

  

同じ曲を2台のハープシコードで演奏したものです。同じ旋律でありながら、オルガンでは分かりにくいブクステフーデの世俗的な魅力が引き出されています。演奏はアメリカのハープシコード奏者のスキップ・センペ(Skip Sempé, 1958 - )による多重録音と思われます。

 

ヴィオールと映画『めぐり逢う朝』

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 『めぐり逢う朝("Tous les matins du monde", 1991)』というフランス映画をご存知でしょうか。『インド夜想曲("Nocturne indien", 1989)』や『リュミエールの子供たち("Les Enfants de Lumière", 1995)』などで知られるアラン・コルノー(Alain Corneau, 1943 - 2010)監督の代表作で、1991年にルイ・デリュック賞(Le Prix Louis-Delluc)を受賞しています。キャストも豪華で、ジェラール・ドパルデュー(Gérard Xavier Marcel Depardieu, 1948 - )、ジャン=ピエール・マリエール(Jean-Pierre Marielle, 1932 - 2019)、アンヌ・ブロシェ(Anne Brochet, 1966 - )などの名優が主だった役を固め、2008年に惜しくも世を去ったジェラール・ドパルデューの息子、ギヨーム(Guillaume Depardieu, 1971 - 2008)が父親の演じる役どころの青年時代を務めています。
 原作は、2000年にアカデミー・フランセーズ賞(Grand prix du roman de l'Académie française)、2002年にゴンクール賞(Prix Goncourt)を受賞したパスカルキニャールPascal Quignard, 1948 - )。17世紀の著名なヴィオール奏者、ムッシュ・ド・サント=コロンブ(Monsieur de Sainte-Colombe)ことジャン・ド・サント=コロンブ(Jean de Sainte-Colombe, 生没年不明)とその弟子であったマラン・マレー(Marin Marais, 1656 - 1728)の関係を通じて「音楽とは何か」というテーマを掘り下げた見応えのある作品です。
 なぜサント=コロンブに「ムッシュ(Monsieur)」と敬称が付いているかというと、彼については、生前から作曲家・ヴィオール奏者として名声を勝ち得ていたにもかかわらず、生没年から出自、生涯、果ては実名までもが明らかになっていないからなんです。最近の研究では、おそらくは1630年代に生まれ、1690年代に死去したジャン・ド・サント=コロンブがその人であるとされていますが、本当のところは何ともいえません。
 弟子のマラン・マレーについては、パリの貧民窟で靴職人の息子として生まれながらサント=コロンブに弟子入りしてヴィオールを学び、ルイ14世ヴェルサイユ宮殿ヴィオール奏者に任命され、後には指揮者・作曲家としても成功を収めた当時の一大スターだったので、資料も山と残っています。
 原作では、世俗での成功など眼中にないサント=コロンブと、地位や名声の獲得に血道をあげるマレーという音楽家同士の葛藤とそれぞれの人生が奇妙に絡み合い、最後には一致していく様が美しく、時には残酷に描かれています。
 説明はこの辺にしておいて、水と油が音楽で溶け合う様子を原作で読み、彼らの音楽を静かに味わって今回は終わりにしましょう。

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       *

 サント・コロンブ氏はさらに前かがみになり、マレの顔をのぞきこむようにして言った。
 「ところで、音楽に何を求めているのかな?」
 「悔恨と涙です」
 (中略)
 「いいかね、むずかしいものだよ、音楽というものは。それは何よりもまず言葉では語れぬことを語るためにある。その意味では、音楽はまったく人の業ではない。ところで君は、それ王のためにあるのではないということは悟ったのかね」
 「それは神のためにあるのだと思います」
 「いや、それは違う。神は語りかけるからだ」
 「耳のため、でしょうか」
 「そもそも語りえぬことが耳のためであるはずがない」
 「金のため?」
 「いや、金など耳障りなだけだ」
 「栄誉のため?」
 「いや、そんなものはこの世に鳴り響く名前にすぎぬ」
 「沈黙でしょうか」
 「それは言葉の裏にすぎぬ」
 「張り合っている音楽家のため?」
 「まさか!」
 「愛でしょうか」
 「いや」
 「愛の悔恨のため?」
 「いや」
 「身を捨てるため?」
 「いや、ちがう」
 「見えない何かに捧げられたゴーフレットのため?」
 「それもまたちがう。ゴーフレットとは何か。それは見えるものだ。味がある。食べられるものだ。そんなものは何ものでもない」
 「もはやわかりません、師よ。あるいは、死者に残しておく一杯の水とか……」
 「いいぞ、いま一歩だ」
 「言葉から見放された人々のための小さな水桶。子供の霊のために。靴屋の槌音を和らげるために。生まれる前の命のために。息もせず、光もなかった頃のために」

パスカルキニャール著 高橋啓訳『めぐり逢う朝』(早川書房) P.133 - 137

  

めぐり逢う朝』より、サント=コロンブと亡き妻の邂逅シーン。実際の演奏はスペインの名ヴィオール奏者で指揮者のジョルディ・サバール(Jordi Savall i Bernadet, 1941 - )が行っています。

 

サント=コロンブ『2台のヴィオールのための合奏曲("Concerts à deux violes esgales")』より。スージー・ナッパー(Susie Napper)とマーガレット・リトル(Margaret Little)の演奏です。

 

マラン・マレー『冗談(Le Badinage』。演奏はヴィオールの演奏はフランスの若手奏者、フランソワ・ジュベール=カイエ(François Joubert-Caillet, 1982 - )。マレーのモチーフは時として現代的で驚かされます。

 


『山崎ハコ』と『ずとまよ』

 高校時代の音吉がしていたアルバイトは、もっぱらコンサートの裏方さんでした。
 来場者の整理・誘導から機材の搬入・搬出まで様々で、決してラクな仕事ではありませんでしたが、不定期とはいえ高校生のできるバイトの中では格段にギャラが高く、最小限の労力で最大限の利潤を得るのが大好きな音吉にとっては「ネコにマタタビ」の仕事でした。
 そんなバイトに入っていたある日のことです。
 舞台裏の給湯室にいた音吉は、廊下から忙しげに飛び込んできた少女と出会い頭にぶつかってしまいました。小さな子を泣かせてしまうようでは、理由はともかく仕事人失格。そう思ってしきりに謝ると、
「私がいけなかったの。ステージ前の私って、いつもこう。ごめんなさい」
 と、ハスキーな小声で大人の対応をするじゃありませんか。よく見れば、小柄で長いストレートヘアの、自分とそう歳は変わらない女性でした。可憐なんだけど、どこか暗い影の漂う不思議なオーラを放っていて、同級生の女の子にはいないタイプです。

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「あんな子がバイト仲間にいたんだ。こりゃあ、もう仕事が終わったら声をかけるっきゃないでしょ」

 と、チャラ男モード全開で妄想に浸っていたんですが、コンサートが始まってビックリ。開演時には、遅れてきたお客さんを席に案内する係をしていたんですが、ファンの拍手に押されるように件の彼女がギターを抱えてステージに現れたんです。
 バックバンドもいない殺風景なステージで、中央に置かれたカウンターチェアに座ると、
「こんばんは。山崎 ハコです」
 つい先ほど聞いたばかりの蚊の鳴くようなハスキーボイスで自己紹介を始めました。苗字と名前の間にスペースを入れたのは、実際に彼女がそこで一息つくように間を置いたからです。
 あんな声しか出せないのにマトモに歌えるんだろうか、と心配になったのですが、彼女が歌い始めて二度ビックリ。か細く、背丈も160センチもない小柄な身体からは想像もできない力強くメリハリの効いた声量とギターワーク。
 音吉は、当時流行っていたフォークソングにはまるで関心がなく知らずにいたんですが、山崎ハコ(1957 - )は音楽業界が注目していたシンガーソングライターだったんです。

歌詞はこちら→ http://j-lyric.net/artist/a001cee/l0055a4.html

 自分で作詞作曲を行い、それを歌うシンガーソングライターは、今でこそ普通の存在ですが、作詞作曲はプロ任せだった当時は斬新な試みでした。18歳だった山崎ハコの歌詞とメロディは当時のティーンの気持ちそのものだったのに対して、例えば同じ年に流行っていた山口百恵(1959 - )の『夏ひらく青春』は、29歳だった千家和也(せんけ かずや、1946 - 2019)作詞で27歳の都倉俊一(1948 - )作曲の、言ってみれば「創られた青春像」だったわけです。

歌詞はこちら→ http://j-lyric.net/artist/a0013c2/l005871.html

 音吉は20代を職業ライターとして過ごしました。20代後半の、それも男性が『an・an』や『non-no』でティーンの女の子向けの記事を書いていたわけです。
 例えばキャミソール・コーディネーションの記事なら、
「男の子をトリコにするにはキャミソールのコーデがポイント」
 とか、
「女子力は見せるインナーの重ね着コーデで決まっちゃうんだぉ」
 なんて具合に。
 若者文化と呼ばれるトレンドの多くが、こうして企業やマスコミが創り出し、誘導した結果であるという傾向は今も続いていますが、YouTubeSNSが浸透したことで、その優位性が崩れつつあるように思えます。
 その一例として、ここ数年来、音吉が注目しているJ-POPの音楽ユニット『ずっと真夜中でいいのに。』(通称『ずとまよ』, 英語表記は "ZUTOMAYO")を紹介したいと思います。

歌詞はこちら→ https://utaten.com/lyric/hs20051501/

 この不思議な名前のユニットはワタナベエンターテイメント(ナベプロ系列の芸能事務所)に所属していて、その意味では従来のアーティストと変わらない在りように思えるのですが、ストリート・ミュージシャンだったACAね(アカネと読みます, 1998 - )に作詞・作曲・ボーカルを任せ、デビューはYouTube、新作発表もYouTube、ライブは行ってもマスメディアへの露出は無し。ACAね個人も含めたユニットのプロフィールも基本は非公開という前代未聞のプロモーション・スタイルを採っています。活動の主だった舞台がYouTubeなので、アニメーターなどのビジュアル・アーティストは曲作りの当初から関わるという点も異色です。グループではなくユニットと言っているのも、ACAね以外のアーティストが曲によって入れ替わるため。
 女子高生に強い人気があるというのも、歌詞にザッと目を通せば合点がいきます。1975年の山崎ハコと同様、等身大のティーンの気持ちが率直に表現されています。それだけに1975年と2020年では「同じティーンでもこんなに感覚が違っているのか」と驚かされます。中二病的な要素が同じでも、ティーン独特の窒息しそうな気持ちを山崎ハコは『飛・び・ま・す』で「旅立ちます、信じるために」と歌い、ACAねは『お勉強しといてよ』で「あ~ 勿体ぶっていいから 孤(こ)のまんま ヤンキーヤンキーだ 現状 維持の無敵め うおおお」と表現しています。
 表現スタイルこそ違いますが、等身大の声は眠っていた感情に訴えかけるようで、今や還暦ジイさんの音吉にも、山崎ハコやACAねの歌は棘となって届き、老化した心をチクチクと刺します。歌とはそういうものなのかもしれません。

マイク・オールドフィールドと映画『エクソシスト』

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 七夕豪雨で始まり、テレビがウォーターゲート事件一色に染まり、三菱重工爆破事件で終わった1974年の夏休み、中学2年生だった音吉は3人の悪友とつるんで映画館に出かけました。ホントは行きたくなかったんですが、
「音吉、怖えんだろう」
 という挑発に乗ってしまったのが運の尽きでした。
 当時としては本当に怖い映画だったんです。ウィリアム・フリードキン(William Friedkin, 1935 - )監督の『エクソシスト(The Exorcist)』。今でこそ特撮もお粗末に感じられて、
「なんでこんなものが怖かったんだろう?」
 と思える映画なんですが、怖いわ・グロいわ・キモいわの3点セットで、音吉は映画の3分の2は目をつぶっていました。

 撮影中に事故が頻発したとか、映画を製作したのはフリードキン監督ではなく本物の悪魔なんだとかいう馬鹿馬鹿しい話がまことしやかに流れていて、夏休みの宿題をほったらかして親にしこたま叱られたことや、ガールフレンドと喧嘩してビンタをくらったことが、
「ほれみろ、あの映画を観た呪いだ」
 と思えたり(単なる自業自得なんですが)して、いいことはひとつもありませんでした。
 いや、ひとつだけ収穫がありました。目はつぶっていても耳に飛び込んでくる劇伴音楽です。透明感があって美しい音楽が選ばれていて、シーンの凄惨さを逆に浮き上がらせているんです。少女の首が回転するカリカリという効果音なんかも混じるのはいただけませんでしたが。

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 この映画で一躍有名になったのが映画公開時に20歳だった英国のミュージシャン、マイク・オールドフィールドMike Oldfield, 1953 - )です。

 デビュー・アルバムとなった『チューブラー・ベルズ(Tubular Bells)』は1973年5月に発売されると7月の全英アルバムチャートで31位で初登場、9月にはトップ10入りを果たします。更に12月には『エクソシスト』のテーマ曲に採用されたことでマイク・オールドフィールドは世界的なスターとなり、発売15か月目にアルバムは全英1位を記録。アメリカでも一九七四年月にはビルボード200で3位。同年のグラミー賞ででは最優秀インストゥルメンタル作曲賞を受賞しました。

 ヨーロッパ各国のアルバム・チャートまで入れると、このアルバムは約2年間にわたってどこかの国のチャート・トップ10に入り続けるという快挙を達成しました。販売数でみれば英国で270万枚以上、世界では推定で1,500万枚を売り上げたことになります。シングルじゃなくてアルバムなんですから驚くほかはありません。

 実は、映画のテーマ曲で流れているものは、版権の問題からオールドフィールドによる演奏ではなく、スタジオ・ミュージシャンによる別テイク。オリジナルは(制作当時)19歳のマイクがただ一人、8か月にわたって26種類の楽器を演奏し、2000回以上の多重録音を行うことで作り上げた孤高の逸作なんです。

 どうして一人で制作したのかというと、マイクは元来が極めて内向的で繊細な性格の持ち主だったことや、10代の頃に家庭内の不和が元でコミュニケーション障害に陥り、他のミュージシャンとのセッションはおろか、レコーディングに際して他者が介在するのも難しい状態にあったからなんです。

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 それを思えば、実業家にして大富豪のリチャード・ブランソン(Sir Richard Charles Nicholas Branson, 1950 - )が彼の才能を高く評価し、必要な機材とスタジオを長期にわたって提供しなかったら、このプログレッシブ・ロックProgressive rock)の名作は生まれなかったでしょうし、そもそもマイク・オールドフィールドという天才が世に知られることもなかったでしょう。資本主義下で才能が発掘され開花するには「お金は出すが口を出さない」有能な投資家の存在がどれほど重要かという好例ですね。

 25分のPart Iと23分のPart IIで一曲という大作ですが、イギリスの伝統音楽(British Falk Music, ブリティッシュ・トラッドは和製英語)をベースに多感な青年が織り上げた音のタペストリーは、ひとたび聴き始めると、つい最後まで付き合わされてしまう強い魅力と魔力に満ちた音楽です。疲れた時やリラックスしたい時に是非、じっくりと聴いていただければと思います。

 マイク・オールドフィールドは他の重要なミュージシャンと同様、この後も何回かに分けて紹介していきたいと思っています。


 

吉森信と『夏目友人帳』

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 音吉は子どもの頃からのマンガ好き。もっぱらギャグ物と恐怖物でしたが。音楽同様の入れ食いで、面白そうだと思ったら少女マンガにも手を出していました。
 とはいえ小学生の小遣いで買えたのは週に一冊。時期によって違いましたが、少年マガジンや、サンデー、チャンピオンを買うのが精一杯でした。なので少女マンガは女子(とか男子とか何であんな言い方をしてましたかね? 照れかな)の家に出かけて行って詠ませてもらっていました。土田よしこ楳図かずお、時には山岸涼子なんかも読んでました。
 そのせいでしょうか、今でもマンガはジェンダーレスに読んでいます。とくに最近のものはジェンダーでジャンル分けする必要があるのかと思えるほど内容に性の差を感じないものがたくさんありますね。

f:id:riota_san:20200726113750j:plain  ここ数年は緑川ゆき(1976 - )のマンガにハマっています。『夏目友人帳』の作者ですが、彼女の感性には本当に感動させられます。『蛍火の杜へ』(花とゆめコミックス)の結末に還暦前のオッサンが泣いた泣いた。彼女の作品に共通しているある種の切なさと愛おしさが、音吉のもつ「浪花節」をくすぐるんでしょうね。ネタバレになるので内容を書くことはできませんが、一読の価値があるものばかりです。  2008年から現在に至る12年間にわたって制作・放送されている『夏目友人帳』のアニメはご覧になった方もいるんじゃないでしょうか。勘の鋭い方なら、 「ははーん、アニメの途中で流れている曲の話がしたいんでしょ?」  と思うかもしれませんが、図星です。

 ストーリーもさることながら、劇伴曲が見事な曲ばかりなんです。音吉は大脳よりも古い脳のほうが先に反応するようで、話の筋を忘れて音楽に聴き入ってしまうことが度々。うっすらと細雪が地を覆うように、パラパラとした音符が静かに心に降り積もるかのような不思議な音楽なんです。  音楽を担当しているのは吉森信(よしもりまこと, 1969 - )。ピアニストでアレンジャー、そしてアニメや映画作品の劇伴音楽の作曲にも携わるマルチな才能の持ち主です。なによりも使い捨てのメロディが量産される現代にあって、これほど味わいのあるメロディを生み出してくれる作曲家は絶滅危惧種にも似た存在かもしれません。  今日は珍しく言葉少なに脱稿します。シンプルで美しい『夏目友人帳』の劇伴音楽。暑い夏の昼下がりに、冷たい麦茶をいただきながら聴いてみてはいかがでしょうか?


 

ドイツ・バッハゾリステンと楽しいバッハ

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 東武東上線成増駅前にモスバーガーの一号店が開店し、横浜からトロリーバスが消えてブルーラインが開業し、世界発の卓上電卓「カシオミニ」が発売された1972年のことです。
 音吉は、中学2年生になるのを機にピアノ・レッスンを「卒業」したんですが、そのお祝いにと講師のSさんからコンサート・チケットをいただきました。ヘルムート・ヴィンシャーマン(Helmut Winschermann, 1920 - )率いるドイツ・バッハゾリステン(Deutsche Bachsolisten [DBS])にソプラノ歌手のエリー・アーメリング(Elly Ameling, 1933 - )を加えた公演で、演目はブランデンブルク協奏曲第3番ト長調BWV1048とヴァイオリン・チェンバロのための協奏曲イ短調BWV1044、そして結婚カンタータ「いまぞ去れ、悲しみの影よ」BWV202(←記憶があやふやで間違っているかも)でした。
 名前から感じた勝手なイメージで、バッハみたいなブ○ド○グ系のいかついオジサンを想像していたんですが、実際のヴィンシャーマンは長身で柔和な感じの素敵な紳士でした。
 楽譜を間違えたのか、足らないページがあったのか、コルネット奏者のおじさんがヴィンシャーマンが登場する寸前にスコアと楽器を抱えて舞台の袖に走り去り、顔を真っ赤にして戻ってくるというアクシデントがありました。ヴィンシャーマンは登場するなり件のコルネット奏者を立たせると一緒に挨拶。会場は大爆笑で、その後も和やかなムードに包まれた楽しいコンサートとなりました。
「バッハのコンサートが和やかで楽しい?」
 そう思う方がいるかもしれません。バッハのファンならまだしも、実のところ高い知名度を誇りながら、バッハほど勘違いされている作曲家もいないのではないでしょうか。

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右側が頭蓋骨から復元されたバッハの肖像です。目を除いて、ほぼ正確なのが分かります。

 息をこらし、眉間に皺を寄せて聴くのがバッハというイメージがあるのは、宗教曲が多いことや、学校の音楽室に飾ってあるバッハの肖像画のせいかもしれません。実際、1894年に発見されたバッハの遺骨から復元した顔は音楽室の肖像画とさほど変わっておらず、これはいよいよもって近寄りがたいイメージですよね。
 バッハに詳しい識者の意見も同様で、日本を代表する音楽学者の磯山雅(1946 - 2018)も著書『J.S.バッハ』(岩波新書)で「洋服を着た勤勉」とバッハを表現しています。しかも並外れて頑固で、金銭に執着することこの上なかったとも。20歳の時には決闘未遂事件を起こすなど、まさに友達にしたくないタイプですね。
 一方で音楽学者で指揮者の樋口隆一(1946 - )は、家族思いでもてなし上手(Gastfreundschaft)であったとも指摘しています。まあ人に2面性があるのは当たり前ですよね。
 音楽でもそうです。バッハは固っ苦しい曲ばかりを作っているわけではありません。いい例が『コーヒー・カンタータ(Schweigt stille, plaudert nicht[お喋りは止めてお静かに], BWV 211)』でしょう。当時、問題になっていたコーヒー依存症を題材にした小喜歌劇です。リュリとモリエールのコンビほどくだけてはいませんが、楽しいことに変わりはなく。
 ハープシコードの作品にも、『半音階的幻想曲とフーガ( Chromatische Fantasie und Fuge)ニ短調 BWV 903』のように、緻密な展開に潜む優雅さが際立つ作品があるわけで、バッハの音楽は一言で片付けられない多面性に満ちているのです。
 今回は楽しく優雅な管弦楽組曲(Ouvertüre)から第4番BWV1069のレジュイサンス(Réjouissance)をアップします。演奏は先に紹介したヴィンシャーマン指揮のドイツ・バッハゾリステンです。 
 ヴィンシャーマンは御年100歳。誕生日の3月22日には盛大な祝賀会が予定されていたんですが、コロナ禍のせいで中止と相成った由。ファンの一人として来年の祝賀会を心待ちにしています。

 

子どもの頃にお世話になったピアノ教則本

 ハノンとかツェルニーチェルニー)と聞いて、なんとなくウンザリしたり残念な気分になる人は、子どもの頃に無理矢理ピアノの練習をさせられたか、ピアノは嫌いじゃなかったけど地道な練習が嫌いだったのどちらかだと思います。音吉は後者で、今なおその性癖は改まっておりませんです。
 日本でピアノを学ぶ場合、ハノンを併用しながらバイエルかメトードローズなどの教則本で始まって、ツェルニー100番→30番→40番→50番と練習曲をこなしつつ、バッハのインヴェンションやらモーツァルトベートーヴェンソナタを学ぶっていうのが王道なんであります。
 でも「ハノン」「バイエル」「ツェルニー」と呪文のように唱えるわりには、なんとなく「教則本の作曲者の名前なんだろうなぁ」と思いながらも、それ以上は深入りしないのがフツーなんじゃないでしょうか。
 そこで音吉は、人生60年目にして、この謎(知ってる人は突っ込み厳禁)に深入りしてみようと思います。

 まずはハノンから。
 やっぱり作曲者名でした。シャルル=ルイ・アノン(Charles-Louis Hanon, 1819 - 1900)。フランス語のHanonを英語読みにして「ハノン」なんでしょうね。オルガニストとしての教育を受けた他は、とくに専門の音楽教育を受けた記録がないのですが、それでも優れたピアノ教師であったことは、彼の遺したピアノ教則本『60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト』の評価をみれば一目瞭然です。これこそが世に『ハノン』と呼ばれているものなんです。教育者の一部には強い批判もありますが、古くはラフマニノフを始め、少なくとも前世紀から現在に至るピアニストの多くがフィンガー・トレーニングに『ハノン』を用いています。


 次はバイエルです。
 やはり作曲者名で、こちらはドイツのフェルディナント・バイエル(Ferdinand Beyer, 1806 - 1863)が著した『ピアノ奏法入門書(Vorschule im Klavierspiel op. 101)』のことでした。お父さんは仕立屋のマイスターでしたが、お母さんが地元の教会のオルガニストを務めていて、それが縁で音楽の道に進んだようです。一時は作曲家やピアニストを目指したものの挫折。結局、ピアノ教師として生計を立てることになったのですが、その教師生活の中で生まれたのがいわゆるバイエル教本というわけです。現在でも多くの子供たちが彼の教則本でピアノを学んでいるわけで、もしかするとバイエル教本の曲は「名曲中の名曲」なのかもしれません。

 

 さて、メトードローズについても触れておきましょうか。
 先のハノンやバイエルと違い、『メトードローズ(Méthode Rose)』は「バラのメソッド」という名を冠した練習曲集で、フランスの作曲者指揮者で音楽出版社の経営者でもあったアーネスト・ヴァン・デ・ヴェルデ(Ernest Van de Velde, 1862-1951)が著したものです。日本語版は戦後の日本を代表するピアニスト、安川加壽子(1922 - 1996)が編纂していて一般に「安川加壽子のメトードローズ」といわれることから、教則本自体を彼女の作と思っている人が多いようです。


 ラストはツェルニーです。
 こちらは作曲者名ですね。オーストリアの作曲家でピアノ教師だったカール・ツェルニー(Carl Czerny, 1791 - 1857)のことです。音吉は彼の祖先の言語であったチェコ語ないしは独語の「チェルニー」で覚えていたんですが、なぜか日本では「ツェルニー」ですね。


 ツェルニー自身のことはピンとこないかもしれませんが、彼がベートーヴェンLudwig van Beethoven, 1770 - 1827)やクレメンティ(Muzio Filippo Vincenzo Francesco Saverio Clementi, 1752 - )の弟子で、リスト(Franz Liszt, 1811 - 1886)のお師匠だったといったら、
「ほほー」
 と思いませんか? 
 彼は無名だったというよりは、あまりにも遺した作品が膨大な数で、前世紀には研究に手をつける人がほとんどいなかったために、いわゆるチェルニーの練習曲集として知られる『王立ピアノ学校~理論的かつ実践的ピアノ演奏教程』以外は知られていなかったようです。今世紀に入ってからはウィーン楽友協会が保存している自筆譜の整理と研究が進展した結果、研究家の間では作曲家としても再評価を受けるに至っています。
 ツェルニーもハノンと同じく、正規の音楽教育を受けたことはありませんでしたが、多くの資料から当時の音楽教育に携わる教授や教師から高い評価と信頼を受けていたことは確かで、世に知られる練習曲以外を聴いてみると、彼が並みの作曲家でないことが分かります。
 最後にチェルニーの才能を知ることができる作品をアップしましょう。曲はピアノソナタ第1番変イ長調 Op.7から II. Prestissimo agitato。演奏はダニエル・ブルーメンタール(Daniel Blumenthal, 1952 - )です。