音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

アルトゥール・ルービンシュタイン

 音吉少年がショパンに入れ込んでいたお話は以前にした通りです。
 正確にいえば「サンソン・フランソワ(Samson François, 1924 - 1970)のショパン」に熱中していたんです。高慢ちきといえるほど気位が高く、むらっ気があり、それでいて繊細という性分のゆえに、評価が二分される演奏家ではあります。興行的には実に面倒な御仁で、絶好調の時には「神が降臨した」と絶賛される演奏をする反面、乗り気でない時は自分で自分の演奏がイヤになり、リサイタルの途中で棄権退場しちゃうこともある人でした。アル中だったせいかもしれませんが。
 サンソン・フランソワと同じく気位は高いけれど、プロとしての安定性と貴公子然とした立ち居振る舞いで抜群の人気を誇ったショパン弾きがいました。アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887 - 1982)です。

 一部のエチュード(étude, 練習曲)を除くショパンの全作品を録音していますし、超絶技巧を要する作品を難曲と感じさせずに演奏する様は圧巻です。もっとも晩年に敬意に満ちた友情で結ばれていた名ピアニストのスヴィヤトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Teofilovich Richter, 1915 - 1997)には、
「アニエラ(Aniela Rubinstein, 1909 - 2002)と結婚する前のルービンシュタインは、ミスタッチは多いわ、ど忘れは酷いわ、もう無茶苦茶だった」
 なんて散々なことを言われてます。たしかに演奏を聴いていると、コルトー並みにミスタッチがありますが、そんなことはお構いなしに堂々としていますよね。さすがはマエストロです(全然、褒め言葉になってないか)。
 ポーランド生まれで、ショパンをライフワークとしていた彼のショパンが悪かろうはずはないんですが、「フランソワ教」に入信していた音吉少年の耳に、ルービンシュタインの演奏は、どこか引っかかりを感じるものがあって好きになれませんでした。どう言えばいいんでしょうか。自分が抱いていたイメージよりもカラフルで濃い味に感じていたんです。
 逆にルービンシュタインのリストやラフマニノフブラームスシマノフスキは大好きでした。そうですね、例えて言うならフランソワは「たをやめぶり」で、ルービンシュタインは「ますらをぶり」と感じていたんだと思います。
 ここで彼のリストを聴いてみてください。曲は『Liebesträume(邦題:愛の夢)』です。ロマン派の作品を得意としていたルービンシュタインと「ますらをぶり」のリストの相性が名演を生んでいると思うのは音吉だけでしょうか。

  雄大なスケールと繊細さという、一見して両極端に思える要求を見事に昇華している例としては、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴いていただくのがいちばんかと思います。
 この曲は、数あるピアノ協奏曲の中で、演奏の難しさと比類のない美しさで知られる名曲のひとつです。初演は1901年。ラフマニノフの従兄アレクサンドル・ジロティ(Aleksander Il'ich Ziloti, 1863 - 1945)指揮で、ピアノはラフマニノフ本人による演奏でした。ローマ正教会の鐘を想起するピアノ・ソロで始まり、交互に現れる二つの主題が、ピアノのカデンツァ(cadenza, 独奏部)を合図に一つに融合してエンディングを迎える構成は圧巻で、ルービンシュタインは聴く側に演奏の難解さを感じさせずに、ゴージャスで雄大ラフマニノフを聴かせてくれます。オケはフリッツ・ライナー(Fritz Reiner, 1888 - 1963)指揮のシカゴ交響楽団(The Chicago Symphony Orchestra)で、1956年の録音です。

 7歳でデビューし、神童と賞賛されながら、17歳の初の米国公演では評論家の酷評に晒されて4年間にわたって音楽活動を休止。ホテルを追い出されるほどの貧困に追い込まれて自殺を図ったり、ユダヤ人であるがゆえの迫害に遭ったりと、風貌からは想像もできないほどの辛酸を舐めた人生でしたが、彼の遺した録音は、苦しみ喘ぎ、時には腰折れながらも、最後には顔を上げ、毅然と前進する勇気を聴く者に与えてくれる強さと優しさに満ちています。