音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

河内家菊水丸と『花 ~すべての人に花を~』

 そろそろ記事も溜まってきたので、もう「入れ食いネコ」の意味は説明するまでもないでしょう。その入れ食いネコ所蔵の音源でも、とくに異彩を放っているのが河内家菊水丸(1963 - )です。
 フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury, 1946 - 1991)が亡くなり、パンアメリカン航空が倒産し、音吉がまだ独身でウルトラに自堕落な生活を送っていた1991年のことです。
 起きがけにテレビをつけたら『笑っていいとも』の放送中。
「いくら何でも寝過ぎだよな」
 と思いながら、それでも布団を被り直してグダグダしていると、テレビから奇妙な歌が流れてきました。ダミ声の男性が歌う盆踊りみたいな、レゲエみたいな…。とにかく聴いたことのない音楽です。しかも、歌詞が何故だかトゲトゲしく感じられて、音吉はムクッと起き上がり、テレビの前に(何故か)正座しました。

 ちょっとばかり派手目の着物姿で長髪のお兄さんが、このイヤな歌の発信源でした。ベラボーにいい加減な生き方をするフリーターの心情が見事な歌詞になっていて、道理で音吉の心を血まみれにしてくれたわけです。
 これが伝統河内音頭の継承者で音頭取りの河内家菊水丸との出会いでした。
 本名は岸本起由。父も河内音頭の音頭取り、母はピアノ教師という音楽一家に生まれた菊水丸は、9歳で櫓(やぐら)に上がり、すでに高校時代には浪曲の初代京山幸枝若(きょうやま こうしわか, 1926 - 1991)や音頭取りの生駒一、天童よしみなど、大物のバックで太鼓やギターを演奏していました。生駒一(生年不明 -2019)には口説き(舞台芸としての音頭のこと)を学んでいます。生駒一について、菊水丸は自身のブログで次のように語っています。

 

「17歳~19歳まで、生駒一座で太鼓を叩き、ギターを弾かせて頂き、プロ活動のいろはを学んだ。河内音頭取りとして、現在の私が成功例だとするなれば、そのフォーマットは生駒師のもの。それを土台に、取捨選択、改良したと言えましょう。生駒師との関わりがなければ、私の人生は大きく変わっていたかも知れません」(出典は以下)

生駒一師匠の通夜・想い出の写真 | 河内家菊水丸オフィシャルブログ「河内音頭」


 1984年からは大阪を拠点に『新聞詠み』で本格的な活動を開始。『新聞詠み』とは、時事を持論で斬り、それを歌う河内音頭のスタイルの一つです。ジャンルこそ違いますが、川上音二郎の『オッペケペー節』や石田一松の『のんき節』を思い出していただければイメージが湧くと思います。
 彼をスターダムに押し上げたのは『グリコ事件終結宣言音頭』でしょう。
江崎グリコゆるしたる」
 という、グリコ・森永事件の犯人による終結宣言にメロディをつけたもので、これに注目したマスコミがこぞって取り上げた結果、菊水丸は一躍、時の人となったのでした。
 彼の人となりを知る面白いエピソードがあるんですが、『グリコ事件終結宣言音頭』を日本音楽著作権協会JASRAC)に登録する際に、菊水丸は、
「作詞者はグリコ・森永事件の犯人」
 と登録。結果、彼は作詞印税を受け取っておらず、今でも印税はJASRAC預かりとなっているそうな。河内家菊水丸という芸人の気骨が垣間見えるお話です。
 大阪がメインだったとはいえ順風満帆の芸能生活を送っていた菊水丸は、2003年に自身の名を冠していた毎日放送MBSラジオ)の『朝はトコトン菊水丸(2001 - 2003)』を自主降板したのを機に、マスメディアとの接点ともいえる『新聞詠み』河内音頭家元を返上。以降は河内音頭の伝統保存と継承にすべてを傾注し、がんに罹患し一時は命の危機を迎えながらも、古典の発掘や他流派への稽古通い等々、コツコツと価高い活動を続けながら今日に至っています。
 幼い頃から馴染み、しかもそれを継承すべき存在が、一時とはいえ伝統河内音頭の師匠連からすればカウンターカルチャー的な潮流の旗振り役となり、再び原点に立ち戻っていく。労力とリスクに満ちた難路を敢えて選んだ河内家菊水丸の凄味には、ただただ音吉は深い敬意をもって頭を垂れるばかりです。
 本当は伝統河内音頭をアップすべきなのでしょうが、今回は彼のレパートリーの中で、とくに音吉が大好きな曲にしたいと思います。沖縄の音楽家平和運動家でもある喜納昌吉(1948 - )作詞作曲の『花 ~すべての人に花を~』です。喜納昌吉夏川りみと比べていただければ、河内音頭の特徴がよく分かると思います。
 いい歌をいい歌い手が歌うと、心の奥底に歌詞が沁みます。歌には、心を癒やし、そっと肩を押して歩みを助けてくれる力があるんですね。