音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

西洋音楽と現代の日本人

 メシアンの音楽に初めて触れた頃のお話にも書きましたが、音吉少年は日曜の夜11時からNHK-FMで放送されていた『現代の音楽』を欠かさず聴いていました。
 当時、番組を担当していた上浪渡さんのお喋りは、正直に言いますが好きではありませんでした。作曲者や曲のタイトルをフランス人ならフランス語風に、ドイツ人だったらドイツ語風に発音してみせたりすることに、子ども心にカチンときてたんです。
 もうひとつの反発は、「知識の特権階級」的な優越感と、それゆえの言いたい放題が耳について嫌だったんです。ただ上浪さんの熱心なファンは今もいらっしゃるので言い訳をしておきますが、現代音楽の普及に上浪さんが果たした役割は大きく、音吉もその恩恵に与ったひとりとして、敬意と感謝を捧げたいと思います。
 上浪さんに限ったことではなく、こうした傾向は、昭和のある時期に活躍した、特に西欧文化に詳しい文化人に特有の「臭い」であったと思います。敗戦によるアイデンティティの喪失が原因だったのか、崩壊した皇国史観の反動だったのかはともかく、音楽評論であれ、随筆であれ、西欧文化をいたずらに崇拝し、返す刀で「それひきかえ日本は」という論調が錦の御旗よろしくたなびいていた時代でした。
 この時期は外国語が一部の人々の特権であったせいか、著名人によるいい加減な翻訳本が出回ったり、ロクに検証もしていなかったのだと今なら分かる怪しげな知識が著作で披露されていたり、個人の意見に他ならないものでも「海外では」といえば世界標準の通念に昇格してしまう等々、劣化と偏りが、教科書にも載るような流麗で模範的な文章の下で跋扈していた時代でした。
 クラシックと呼ばれる一連の音楽は、特にこうした悪しき流れの餌食となり、その後遺症は未だに尾を引いているように思えます。私たちの生活様式や嗜好がそうであるように、たしかにデファクトスタンダードとしての地位をクラシックの楽典が占めているのはたしかです。誰が定めたわけでもないのに、現在の日本人は十二平均律を自然に受け入れていますし、均分分割したリズムなしに音楽は成り立たないように思っていますから。クラシック音楽には無関心などころか反発さえ感じる若者たちでさえ、自ら生み出すサウンドは、どっぷりとクラシック音楽の生み出したフィールドに根を下ろしています。
 今は、かつての昭和のようにクラシック音楽をわけもなく崇拝するような思考停止は廃れていると思います。ただ「お上品楽」とか「意識高い系」とかを他者に吹聴するためのアイテムだと感じる人は少なからず、これは先に述べた昭和の文化人が遺した負の遺産ではないかと思います。
 これは二つの意味で不幸なことです。
 ひとつは感性面での損失です。クラシック音楽と呼ばれているものは、西欧というローカルで途切れることなく長い時間をかけて育まれた魅力ある音楽です。流入する様々な文化を吸収しながらも芯を見失わず、営々と進化を遂げてきた音楽だからこその分厚さや高度の音楽性に満ちているのがクラシック音楽なのです。食わず嫌いで聴かずにいるのは、もしかしたら自分の心を豊かにしてくれる栄養を意識的に摂らずにいることにはならないでしょうか。クラシック音楽の栄養が、音と歌詞で分かる例を聴いてみてください。

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Music, music for a while
Shall all your cares beguile.
Shall all, all, etc...
Shall all your cares beguile
Wond'ring, wond'ring
how your pains were eased, eased, eased
And disdaining to be pleased
'Til Alecto free the dead
'Til Alecto free the dead
From their eternal bands
'Til the snakes drop, drop, drop
Drop, drop, drop, drop, drop from her head
And the whip,
And the whip from out her hand
Music, music for a while
Shall all your cares beguile.
Shall all, all, etc...
Shall all your cares beguile
Shall all your cares beguile

しばしの間の音楽が
あなたのあらゆる悩みを癒やすことでしょう
自分の苦痛がどうして失せたのかをいぶかりつつ
いたずらに喜ぶことを恥じ
復讐の女神アレクトーが
死者を永遠の束縛から解放するときまで
蛇が彼女の頭から落ち
鞭が彼女の手から落ちるときまで

 ヘンリー・パーセル(Henry Purcell, 1658 - 1695)の作曲でジョン・ドライデン(John Dryden, 1631 - 1700)作詞の『しばしの間音楽が(Music for a while)』という小品です。心折れ、疲れ切っている時に、音楽がもたらす癒しを静かに、こんなにも深く感じさせてくれる曲を、音吉は他に知りません。クラシック音楽に、時代や文化の違いを超えた普遍性があるとすれば、まさにこの曲は好例だと思います。 
 意識的にであれ、無関心のゆえであれ、クラシック音楽を避けて被る二つめの損失は、音楽の体系化という他の文化には見られなかった成果の置き土産をスルーしてしまうことです。
 先にも述べましたが、良かれ悪しかれ現在の私たちは、クラシック音楽が長きにわたって築き上げてきた音とリズムの常識を自然に受け入れ、我がものにしています。言葉の違いはあっても海外のポップスをJ-POPと変わらず楽しむことができ、日本のアニメ音楽が海外の若者たちに受け入れられ、浸透するのもこのためです。
 ただ、いいことだけではありません。自身が依って立つ文化的素地への無関心は、自国の伝統文化に距離を感じたり、様々な音楽大系を有する他文化への拒絶感や偏見を野放しにしてしまう危険性を孕んでいるのです。もはや無意識の一部となっているクラシック音楽の影響を顧みない限り、自国をも含めた文化の多様性を認め、楽しむことはできないといっても言い過ぎではないでしょう。
 西欧発の音楽がデファクトスタンダードとなった現代にあって、クラシック音楽を殊更、特別視し崇拝する人は少なくなりましたし、そんな人がいたとしても鼻をつままれるだけでしょう。
 大切なのは、もはや自分の一部となっている西欧音楽と、どう折り合いをつけるかということではないかと思います。これは、実のところ音楽に留まりません。明治の開国と先の大戦での敗戦を経て、さらに世界のグローバル化に洗われる私たち日本人が突きつけられている歴史的な課題なのだと思います。