高校受験の勉強たけなわの、中学3年生の夏休みのことでした。昼下がりに居間でゴロゴロしていたら電話がかかってきました。
ベルリン自由大学に留学していた従兄が一時帰国し、
「遊びに来い」
とのお達し。音吉の母は、
「音吉が受験生だってことは知ってるはずなのに、そんな子を遊び相手に呼び出すなんて!」
とおかんむりでしたが、音吉は内心、大喜びで、
「兄ぃもさぁ、そんなに非常識じゃないでしょ。すぐに帰してくれるよ」
とポーカーフェイスで母をなだめて家を出たんですが、結論から言うと、従兄は非常識極まりませんでした。
従兄は自室に音吉を閉じ込めると、ドイツで買い込んだレコードを次から次にかけ、ドイツの話を果てしなく聞かせてくれました。音吉はというと、テキトーに相づちを打ちながら、それまで聴いたこともなかったドイツや北欧のロック・サウンドに、グミ・ベア(ハリボーの熊型グミ)を食べながら聴き入っていました。あの頃は珍しかったクーラーが従兄の部屋にはあって、居心地がいいのなんの。
そんなこんなで、どれぐらいの時間が経ったでしょうか。ドアをノックする音がして、
「音ちゃん、お母さんから電話がかかってきたわよ。ホントは夕食を一緒にと思ってたんだけど、もう帰らないと家に入れてもらえないかもね。カンカンに怒ってたから」
と伯母ちゃんの声が。まだ窓の外は明るいものの、たしかに夕焼け空が暗い闇に沈もうとしています。慌てて帰ろうとする音吉に、従兄はレコードを一枚、持たせてくれました。
「これ、受験の陣中見舞いな。勉強、頑張れよ」
「聴かせてくれたやつ?」
運転席からアウトバーンを描いたイラストのジャケってあったっけ? 見覚えのないジャケットを不思議そうに見つめる音吉に、
「サプライズだから聴かせなかったんだ。けど、音吉なら絶対に気に入るぜ」
と、従兄はニヤニヤしながら答えました。
帰宅して、しこたま叱られたのはいうまでもありません。夕食後、怒り冷めやらぬ母親から逃げるように部屋にこもると、早速、てんとう虫のポータブル・プレイヤー(覚えている方もいらっしゃるでしょうね)で件のレコードの視聴を始めました。
『クラフトヴェルク(Kraftwerk, 英読みでクラフトワーク[以後はクラフトワークと表記します])』というグループの最新のポップスという短い説明しか受けていなかったんですが、たしかに最新のサウンドでした。というか聴いたことのない楽器の音色だったんです。
電子楽器だということは分かったんですが、メシアンを聴いて既に知っていたオンド・マルトノ(Ondes Marteno, 1928)やテルミン([露]Терменвокс [英]Thereminvox, 1920)とも違う、タイトで安定したサウンドでした。
クラフトワークが演奏に使っていたのがアメリカのロバート・モーグ(Robert Moog, 1934 - 2005)博士の開発したミニモーグ(Miniboog, 1970)というモノフォニック・シンセサイザー(和音が弾けず単音しか出せないもの)であることを知ったのは、高校生になってからでした。
シンセサイザーの歴史は思いのほか古く、19世紀の半ばには既に原型となるアイデアあったようです。それが1896年にテルハーモニウム(Telharmonium, 別名:Dynamophone)が開発されると、真空管が発明された20世紀にはテルミンやオンド・マルトノ、ヴォコーダー(Vocoer, 1939)などがちらほらと登場するようになります。
現在のようなシンセサイザーの開発が始まるのは第二次世界大戦後にコンピューターが普及してからで、「シンセサイザー」という名称が使われるようになるのは1957年以降。先述のモーグ・シンセサイザーから和音が弾けるポリフォニック・シンセサイザーが一般的になるまでには10年とかかっていません。
音吉が大学生になった頃にはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が活躍していたわけですから、1970年代にシンセサイザーが飛躍的な進歩を遂げたのは、初期のクラフトワークとYMOを聴き比べただけでも分かります。
レコーデビュー前、1970年のライブ。
YMOのデビュー・アルバム(1979)
テクノ・サウンドの先駆けとして登場したクラフトワークは、音吉が大学生になった頃には既に過去のサウンドとみなされていました。そして和音で演奏できる楽器となったシンセサイザーが他の楽器と変わらぬ立ち位置に埋没した結果、テクノ・サウンド自体も存在意義を失っていきます。
以前にも書きましたが、初めて渡独した時に、クラフトワークの拠点であるデュッセルドルフをいちばんの目的地にするほどクラフトワークに入れ込んでいた音吉は、世間が「古い」と烙印を押した彼らの音が今でも大好きです。モノフォニック・シンセサイザーの無骨な音を重ねて創り出したサウンドは、モノフォニックになってからのシンセサイザーでは出せない独特の味わいがあるからなんです。実は、それこそが後に「古い」音だと評価される原因にもなったと思うんですが。
ルール工業地帯に位置するデュッセルドルフを根拠地とするクラフトワークが、
「何十年と同じような音楽ばっか」
と嘲笑されながらも、未だに方向性を変えずにいる理由は実にシンプルだと思います。それは創作の芯にインダストリアル・サウンドというコンセプトを据えているからです。サウンドの流行り廃りとは無関係に、彼らが見つめ続けているのは、テクノロジーと人間との境界線なのだと。驚異的な進歩を遂げるAIに対して一般の人々が抱き始めた好奇心と恐怖を、日本人が大阪万博に沸き立っていた頃には既に感じ、それをサウンドに変換して問い続けてきたのがクラフトワークなのだと思います。
2018年、ヘルシンキでのライブです。
末尾ながら、4月に帰天したフローリアン・シュナイダー(Florian Schneider-Esleben, 1947 - 2020)に心からの哀悼の意を表します。