音吉が小学4年生の時のことです。
音吉の自宅にはピアノがあり、音大で教鞭をとっていたS先生が週に2回、ピアノの個人レッスンをしていました。音吉も教わっていたのですが、ある日のこと、音吉と入れ替わりに見知らぬお婆さんがレッスンの部屋に入っていきました。
60代の後半か70代の前半ぐらいのお年だったでしょうか。長い白髪を髷にして後頭部で束ね、麻のモンペ風パンツに和柄で紺色の野良着という出で立ちで、すれ違った時にほんのりお香の匂いがしました。お年の割に動作が機敏で、穏やかさの中に鋭い眼光を宿したような美しい女性でした。
音吉が玄関先で飼い犬のタロちゃんと遊んでいると、ほどなく部屋からタドタドしいピアノの音が漏れてきました。くぐもっていたので内容までは分かりませんでしたが、時折、笑い声を交えながらの会話が楽しげに聞こえてきます。
後日、S先生にそのお婆さんについて尋ねたところ、
「あの方はね、利喜丸さんという芸者さんなの。昔からピアノに憧れていらっしゃってね。死ぬ間際に後悔したくないからって、レッスンを受けることにしたんだって」
子供心に驚きました。音吉は小学2年生からピアノを始めたんですが、S先生は、
「今から始めてもプロになるには遅すぎますが、それでも構いませんか?」
と両親に念押しをしたということを聞き知っていたからです。
じきに音吉は利喜丸さんと親しくなり、自宅から歩いて10分ほどのところにある置屋に遊びに行くようになりました。
利喜丸さんは置屋の女将をされていて、置屋の芸者さんたちからは「姉さん」と呼ばれていました。
「なんで利喜丸さんはお婆さんなのに『姉さん』なの?」
なんて失礼な質問をすると、
「さあね、知りませんよ、んなこと。坊ちゃんに言っときますが、そんなことを女衆に訊くのは野暮ってもんです。そんな男衆は女の子に嫌われますよ」
と、竹を割るとはこのことだと言わんばかりの口調で説教されました。やがて音吉も利喜丸さんを「姉さん」と呼ぶようになりましたが、業界の慣習というよりも、利喜丸さんは確かに「姉さん」でした。
白状しますが、置屋に遊びに行くいちばんの理由は、利喜丸さんに会いにいくのは理由の半分で、もう半分は美味しいお菓子が食べられることでした。置屋には、ご贔屓の旦那衆から届く高級品のお菓子や果物が山とあって、処分に困っていた利喜丸さんや他の姉さん方がこれでもかと言わんばかりに食べさせてくれたんです。
まあ、お楽しみはそれだけじゃありませんでしたが。
食べる以外に楽しかったこと。それは舞妓さんのお茶屋遊び(お座敷遊び)の練習台になることでした。舞妓さんは芸妓さんにあがる前の見習さんなのでトレーニングは必須。そこに音吉が駆り出されたわけです。
お茶屋遊びは『チャッキリ節』やら『桑名の殿さん』やらとたくさんありますが、子供の音吉がいちばん楽しかったのは『金毘羅船船』でした。
有名な唄ですが、遊び方はご存知ですか?
言葉で説明すると面倒な上に分かりにくいので動画をご覧ください。
お分かりいただけたと思いますが、この遊び、ライブで音楽がないと成り立たない贅沢な遊びなんです。なので音吉が遊ぶ時も、地方(唄と楽器担当)の芸妓さんが加わってのゴージャスなものでした。
『金毘羅船船』には、もうひとつ、忘れられない思い出があります。それは遊びを伴わない純粋な音楽として利喜丸さんが唄ってくれた『金毘羅船船』です。お座敷に正座し、しゃんと背を伸ばし、畳んだ扇子で品を作りながら唄う利喜丸さんは、子供心に「粋」の何たるかを感じ取れるほどに美しかったですねぇ。
残念というか、当然というか、利喜丸さんの動画も録音もあるはずもなく。ご覧いただけないのは悔しい限りですが、YouTubeで記憶にいちばん近い斎藤京子(1936 - )さんの唄をアップします。斎藤さんは言わずもがなの民謡の大御所で、民謡に関心のない方でも1953年に三橋美智也さんとデュエットしたヒット曲『お花ちゃん』はご存知かもしれません。
話を戻しますが、利喜丸さんはピアノのレッスンをお亡くなりになるまでの5年間、休むことなくお続けになりました。置屋で営まれたお葬式にはピアノのS先生も列席し、
「本当に素敵な方でした」
と涙ぐんでいたのを今でも鮮明に覚えています。中学生になっていた音吉も泣きました。優しく厳しい姉さんの説教が聞けないなんて、何よりもあんなに素敵な唄が二度と聴けないなんて悲しすぎましたから。
姉さん、音吉はフツーに爺さんになっちゃいましたが、あの世で会っても、
「なんだい、みすぼらしくなっちまって!」
なんて叱らないでくださいな。音吉は相変わらず姉さんのファンなんですから。