音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

フィービ・スノウと『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』

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 高校生の頃から輸入盤を買う楽しみを知って、放課後や休日に音吉は友達とつるんでレコード店巡りをするようになりました。
 初めは、同じレコードなら国内盤より輸入盤のほうが安く買えるからというのが理由だったんですが、じきに「日本で知られていないヤバいアーティストを発掘する」コンペを友達と競うようになりました。
 輸入盤は大抵の場合、お店での試聴ができませんでした。そんなサービスをしていたらキリがありませんし、第一、ほとんどの輸入盤はラッピングされていましたから、聴きたかったら買うしかなかったんです。アーティストをスマホで検索することができる時代でもありませんでしたし。
 では、どうやってレコードを選んでいたのかといえば、第六感ってやつですね。勘で選ぶしかなかったんです。
 もちろん多少の手掛かりはありました。どこの国のアーティストか。どんなジャンルの音楽か。共演者で知っている人はいるか。これぐらいはジャケットの情報だけで分かるんですが、クラシックのようにジャケに説明文が印刷されてはいませんし、国内盤のように帯が付いているわけでもないので、詳しいことは少しも分かりません。
 勘に寄与する最大のポイントは、なんといってもジャケットのデザインです。「ジャケ買い」ってやつですね。アーティストの画像は言うに及ばず、写真やイラストが自分の好みかどうか、グラフィック・デザインがカッコいいか、ダサいか。そんなポイントをチェックしていると、
「これ、いいかも。いや、これは買う運命にあるレコードに違いない」
 なんて妄想に駆られるんですね。んでもって小遣いの何分の一かを悪魔に献上するわけです。
 でも、これが不思議に当たるんです。
「買った以上は、好きになろう」
 という心理のせいじゃないかと問われたら否定はできないんですが、10枚買って7枚は当たりぐらいの勝率でした。それに目出度くスカとなったレコードも、欲しがる友達と交換したり、中古レコード屋に売って投資の何分の一かを回収したりしていたので、あまり痛い思いはせずにすんでいました。もちろん、こんな買い方をしていたことは親には内緒でしたが。
 そんなジャケ買いレコードの中で、忘れられない出会いとなった一枚があります。
 女性の横顔を白地に描いたイラストと、タイトルと思しき『PHOEBE SNOW』が印字されたシンプルなジャケット。初対面の人ばかりの華やかなパーティで普段着のままの幼馴染みと出くわしたら、きっとそんな気分になるだろうな。そう思えるような穏やかで温かい印象に一目惚れして、音吉はそそくさとレコードを買いました。
 しかし、です。帰宅して裏面の曲名に目を通すと、タイトルに「Blues」という文字がチラホラとあるじゃないですか! 10代の頃の音吉にとって、ブルースと演歌は鬼門でした。たいがいの音楽は入れ食いで好きになる音吉がどうしても好きになれない、というか関心が持てなかったジャンルだったからです。
 やっちまった感満載の思い気分でレコードに針を落とすと…。おそらくは彼女自身が弾くタイトな生ギターに乗せて、低い、柔らかな歌声が聞こえてきました。それは初めて聴く声なのに親しみ深く、懐かしく。シャウトすることもなければ大袈裟な歌い回しでもないのに、彼女の歌は聴く者の心に深くくさびを打ち込む力に満ちていました。
 そして心配していた『San Francisco Bay Blues』でしたが、これも杞憂でした。それどころか、カッコよかった。切れの良いギターの刻みに合わせて、深みのある歌声が悩み傷ついた人々の心をそっと包み込んでいくかのようです。ブルースに対する偏見が吹き飛ばされ、それまでどこか遠くに感じられていたアメリカという国が急に近く感じられるようになったのは、この曲のおかげだったかもしれません。


 他の曲も素晴らしいものばかりでしたが、『Poetry Man』は別格でした。たぶん高校生の音吉が歌を聴いて心底、美しいと思えたのは『Poetry Man』が初めてだったんじゃないかと思います。


 フィービ・スノウPhoebe Snow[本名]Phoebe Ann Laub、1950 - 2011)。タイトルとばっかり思っていたのは、この珠玉のアルバムを歌う彼女の名前でした。
 実をいえば、ジャケ買いで音吉が発掘したような気になっていたフィービは、日本でこそ名を知られていませんでしたが、当のアメリカでは、すでに超売れっ子だったんです。
 デビューは1972年。音吉が買ったアルバムは1974年のリリースで、なんとアメリカで100万枚を超える売り上げを記録し、ビルボードのアルバム・チャートでもトップ5にランクインしたものでした。アルバムに収録されていた件の『Petry Man』も翌75年にシングル盤で発売され、ビルボードのシングル・チャートでトップ5入り。レコードを買ったのは1975年でしたから、音吉は知らずしてアメリカを席巻していたヒット・アルバムを手に入れていたんですね。しかも後で調べたら、すでに国内盤も出ていたし。情報に満ち満ちた今の世の中では想像もできないお目出度いお話です。
 アーティストとして順調なスタートを切ったフィービでしたが、1975年に娘ヴァレリーが重い脳障害を患って生まれると、フィービは娘を施設で育てることを拒み、自宅での養育を選びました。以後、ヴァレリーが31歳の生涯を終えるまで、フィービは輝かしい将来が約束されていた音楽業界から遠ざかることになります。

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 それでも音楽業界やファンがフィービを忘れることはなく、ビリー・ジョエルドナルド・フェイゲンなどがレコーディングやコンサート・ツアーに彼女を招き、1999年にはキャンプ・デービットでクリントン大統領夫妻の面前で歌う栄誉にも浴しています。我が子のためにキャリアを捨てたフィービは、アメリカの人々にとってはヒロインだったのでしょう。
 2010年1月19日、フィービはヴァレリーの待つ御国に旅立ちました。享年60歳。長年の労苦に身体が蝕まれ、脳出血に肺炎や心不全を合併しての死でした。