音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

アルベルト・シュバイツァー

 音吉少年は、他の少年たちと同じく好奇心が抑えられないタチで、「ダメ」と言われれば、ついその禁を犯すことになってしまうのでした。

 レコードにしてもそうで、演奏家や作曲者とは無関係に盤自体に特徴があると、それが何か特別な宝物であるかのように思えてくるのです。

「これは大切なレコードだから自分で勝手に聴いちゃダメだよ」

 と厳命されていたのに、父の不在中にこっそり書斎からレコードを持ち出しては自室のポータブルプレイヤーで聴いていたものが何枚かありました。

 そのうちの一枚がアルベルト・シュヴァイツァーの演奏するバッハのオルガン小曲集でした。このレコードは盤面が赤く、若干ですが少し透けていて、初めて見た途端に音吉的はトップクラスの希少品に認定しました。これは通称「赤盤」と呼ばれるもので、東芝の開発した静電防止剤を混ぜたせいで赤くなったものだそうです。パチパチという耳障りな音を覚えている方もいらっしゃるとおもいますが、あれの主因は傷ではなく、盤に発生した静電気のせいで、それを減らすための工夫だったんですね。ただ音吉少年も気付いていましたが、この赤盤、音がイマイチでした。雑音が減った代わりに音も少しくぐもった感じになっちゃう。音吉が認定するまでもなく赤盤が少なかったのはこのせいだったのでしょう。

 さて、赤盤だし、学校の図書室に並ぶ偉人伝ではご常連のシュバイツァー博士が演奏者。さぞや素敵な演奏が聴けるのかとワクワクして針を落とした音吉少年でしたが、初めて聴いた時は途中で聴くのを止めてしまうほど退屈でガッカリ。関心のない曲でも聴き始めたら最後まで止めないのが当たり前だった音吉が途中で放り出すなんて滅多にないことです。1935年から1954年にかけて録音されたうちの一曲のようで音質は悪く、それでいて象の散歩みたい(見たことはありませんが)なスローテンポで泥臭い演奏に思えたんです。まあ、たしかに今聴いても洗練されたプロの演奏とは比べものにならないほどドン臭いのは確かなんですが。

 ところが、です。どこかで引っかかりがあったんでしょうね。二度、三度と聴いているうちに、音吉はシュヴァイツァー博士の演奏に次第に引き込まれて言ったのです。

 当時はよく分からずにいましたが、今ではその理由が分かります。それはシュバイツァー博士の演奏が人に聴かれることを意図していない、ということなんです。彼は音楽を神への語りかけとして用いている、つまりは音楽を奏でる行為を祈りとしていたんです。ミスタッチがあろうが、素人同然の装飾音を弾こうが、失笑されかねないテンポで演奏を進めようが、それが神に捧げる一音一音となれば、捧げ得る一曲となれば、それで足りたのです。  広大で沈黙の支配する空間で神の前にひとり立ち、

「主よ、わたしはここにおります」

 と声を投げかける真の謙遜と神への信頼が、聴く者に深い安らぎをもたらします。

 それが聴くに耐えない演奏に思えても、どういう状況で、どんな思いで演奏したのかを知ることで音に込められた思いに打ちのめされることは少なからずあります。たとえば1969年に録音されたバックハウス最後のリサイタルでは、途中で容態が悪化し、演目を変更して選んだ文字通りに最後の演奏、シューベルトの『即興曲(Op.142 No.2)』が収録されています。力は既に失せ、まるで試し弾きをしているかのような演奏なんですが、彼の置かれた状況を知ると、人生のすべてを音楽に捧げた世紀のマエストロが、よろめきながらも聴衆にむけて別れを告げているのが分かり、他に代えがたい素晴らしい演奏として心に焼き付きます。これは後日アップしますね。

 前世紀のマエストロたちによる演奏は、いまの基準でいえばミスタッチの多い「コンクールなら予選で落ちる」ものが多いとは思います。それでも、こと音楽に関していえば、近頃は高度なテクニックを持ちながら、音に高貴な香りや強い精神性を感じさせる演奏家が少ないように思えるのは気のせいでしょうか?

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