音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

ヴィオールと映画『めぐり逢う朝』

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 『めぐり逢う朝("Tous les matins du monde", 1991)』というフランス映画をご存知でしょうか。『インド夜想曲("Nocturne indien", 1989)』や『リュミエールの子供たち("Les Enfants de Lumière", 1995)』などで知られるアラン・コルノー(Alain Corneau, 1943 - 2010)監督の代表作で、1991年にルイ・デリュック賞(Le Prix Louis-Delluc)を受賞しています。キャストも豪華で、ジェラール・ドパルデュー(Gérard Xavier Marcel Depardieu, 1948 - )、ジャン=ピエール・マリエール(Jean-Pierre Marielle, 1932 - 2019)、アンヌ・ブロシェ(Anne Brochet, 1966 - )などの名優が主だった役を固め、2008年に惜しくも世を去ったジェラール・ドパルデューの息子、ギヨーム(Guillaume Depardieu, 1971 - 2008)が父親の演じる役どころの青年時代を務めています。
 原作は、2000年にアカデミー・フランセーズ賞(Grand prix du roman de l'Académie française)、2002年にゴンクール賞(Prix Goncourt)を受賞したパスカルキニャールPascal Quignard, 1948 - )。17世紀の著名なヴィオール奏者、ムッシュ・ド・サント=コロンブ(Monsieur de Sainte-Colombe)ことジャン・ド・サント=コロンブ(Jean de Sainte-Colombe, 生没年不明)とその弟子であったマラン・マレー(Marin Marais, 1656 - 1728)の関係を通じて「音楽とは何か」というテーマを掘り下げた見応えのある作品です。
 なぜサント=コロンブに「ムッシュ(Monsieur)」と敬称が付いているかというと、彼については、生前から作曲家・ヴィオール奏者として名声を勝ち得ていたにもかかわらず、生没年から出自、生涯、果ては実名までもが明らかになっていないからなんです。最近の研究では、おそらくは1630年代に生まれ、1690年代に死去したジャン・ド・サント=コロンブがその人であるとされていますが、本当のところは何ともいえません。
 弟子のマラン・マレーについては、パリの貧民窟で靴職人の息子として生まれながらサント=コロンブに弟子入りしてヴィオールを学び、ルイ14世ヴェルサイユ宮殿ヴィオール奏者に任命され、後には指揮者・作曲家としても成功を収めた当時の一大スターだったので、資料も山と残っています。
 原作では、世俗での成功など眼中にないサント=コロンブと、地位や名声の獲得に血道をあげるマレーという音楽家同士の葛藤とそれぞれの人生が奇妙に絡み合い、最後には一致していく様が美しく、時には残酷に描かれています。
 説明はこの辺にしておいて、水と油が音楽で溶け合う様子を原作で読み、彼らの音楽を静かに味わって今回は終わりにしましょう。

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 サント・コロンブ氏はさらに前かがみになり、マレの顔をのぞきこむようにして言った。
 「ところで、音楽に何を求めているのかな?」
 「悔恨と涙です」
 (中略)
 「いいかね、むずかしいものだよ、音楽というものは。それは何よりもまず言葉では語れぬことを語るためにある。その意味では、音楽はまったく人の業ではない。ところで君は、それ王のためにあるのではないということは悟ったのかね」
 「それは神のためにあるのだと思います」
 「いや、それは違う。神は語りかけるからだ」
 「耳のため、でしょうか」
 「そもそも語りえぬことが耳のためであるはずがない」
 「金のため?」
 「いや、金など耳障りなだけだ」
 「栄誉のため?」
 「いや、そんなものはこの世に鳴り響く名前にすぎぬ」
 「沈黙でしょうか」
 「それは言葉の裏にすぎぬ」
 「張り合っている音楽家のため?」
 「まさか!」
 「愛でしょうか」
 「いや」
 「愛の悔恨のため?」
 「いや」
 「身を捨てるため?」
 「いや、ちがう」
 「見えない何かに捧げられたゴーフレットのため?」
 「それもまたちがう。ゴーフレットとは何か。それは見えるものだ。味がある。食べられるものだ。そんなものは何ものでもない」
 「もはやわかりません、師よ。あるいは、死者に残しておく一杯の水とか……」
 「いいぞ、いま一歩だ」
 「言葉から見放された人々のための小さな水桶。子供の霊のために。靴屋の槌音を和らげるために。生まれる前の命のために。息もせず、光もなかった頃のために」

パスカルキニャール著 高橋啓訳『めぐり逢う朝』(早川書房) P.133 - 137

  

めぐり逢う朝』より、サント=コロンブと亡き妻の邂逅シーン。実際の演奏はスペインの名ヴィオール奏者で指揮者のジョルディ・サバール(Jordi Savall i Bernadet, 1941 - )が行っています。

 

サント=コロンブ『2台のヴィオールのための合奏曲("Concerts à deux violes esgales")』より。スージー・ナッパー(Susie Napper)とマーガレット・リトル(Margaret Little)の演奏です。

 

マラン・マレー『冗談(Le Badinage』。演奏はヴィオールの演奏はフランスの若手奏者、フランソワ・ジュベール=カイエ(François Joubert-Caillet, 1982 - )。マレーのモチーフは時として現代的で驚かされます。