音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

ウイグル人と『ムカーム』


 音吉は20代の頃、紙媒体の仕事で生活していたんですが、ひょんなことから評論家先生や某有名誌の編集委員さんに誘われて、旧社会党の副委員長さんがリーダーを務めるマスコミ関係者の中国取材旅行に同行したことがあります。
 その折に、ある音楽との鮮烈な出会いがありました。
 音吉が担当した取材先のトルファンでのことです。カレーズという地下水道の取材を終えてホテルに戻った音吉は、ソファに座り、様々な種類のブドウが盛り付けられた籠を膝に乗せて口いっぱいにブドウを頬ばっていました。
「ブドウって、こんなにたくさんの種類があって、味もそれぞれに違うんだ」
 と感動しながら、窓の外に広がる緑豊かなブドウ畑を眺めていました。
 その時です。ドアをノックする音が聞こえて、ズカズカと一人の男性が部屋に入ってきました。歳は音吉より一回りは上でしょうか。ウイグル独特の帽子を被り、人懐っこい笑顔を絶やさない中肉中背の男はハキムという名の運転手で、トルファン滞在中の音吉の世話を一手に引き受けてくれる“相棒”でした。
「今晩、夕食のついでにムカームを観ようよ」
「いいけど、ムカームって何?」
「僕らウイグルの音楽と踊りさ」
「踊りなら君のをイヤってほど観てるけどね」
 ウイグルの人たちは、とにかく踊りが好き。というか、踊りが喜怒哀楽を表す日常の身体表現になっていて、音吉はトルファンに到着した直後から、歓迎に、食後のデザート代わりに、酒の余興にと、事あるごとにハキムの踊りを散々観ていて食傷気味だったんですが、ハキムの「綺麗なお姉さんが踊るから」という言葉を信じて結局、出かけることにしました。
 会場はホテルからクルマで10分とかからないところにあるレストランの大きな庭。絨毯を敷き詰めたブドウ棚の下が舞台となっていて、観客は外にしつらえたテーブルで会食しながらムカームを楽しむという趣向です。
 お世話になっている御礼の意味も込めて、その晩はハキムのご家族全員を招待しました。ちょっとした散財でしたが、ハキムはもちろん恰幅のいい奥様と3人の男の子、2人の娘さんも喜んでくれたので、音吉にとっては忘れられない思い出となりました。

 何より忘れられないのが本命の『ムカーム(ئۇيغۇرمۇقامى)』です。
 ムカームは、かつては叙事詩のための音楽だったようですが、現在では各国に住むウイグル民族に伝わるいくつかの系統をまとめた音楽大系の総称となっています。トルファンにはトルファンのムカームがあるのですが、音吉が聴いたのは、カシュガルから来た楽団による『12ムカーム』というもので、現在の新疆ウイグル自治区にあたる地域をを支配していたヤルカンドハン国(1514 - 1682)の宮廷音楽を起源としています。
 清王朝から国民党政権時代にかけては、いわゆる民族浄化政策によるウイグル民族への弾圧によって、12ムカームのすべてを演奏し歌えるのはトルディ・アホン(1881 - 1956)という音楽家ただ一人という消滅の危機を迎えました。
 この危機を救ったのは、今では信じられないことなのですが国民党から政権を奪取した中国共産党でした。ウイグル人の居住地域を占領した共産党政権は、早々に12ムカームの録音を開始。その後8年をかけて採譜作業が行われて12ムカームは消滅の危機を脱したのでした。
 しかし文化大革命後の1981年にに設置された中央政府主導の新疆ムカーム研究所は、共産党思想に不都合な歌詞を古典詩に置き換えるなどの改ざんを行い、再び違う形での危機を迎えることになりました。時期的に考えて、音吉が聴いたのはこの時期のものだと思われます。
 現在では、先の研究所とは無関係の新疆ウイグル自治区ムカーム研究会による再度の収集並びに整理作業によって、改ざん前の歌詞に戻されたスコアが出版されています。
 当時のウルムチ商工会議所の副会長さんだった方(女性)が、
ウイグルの地へようこそお越しくださいました。私たちは、私たちウイグルのしかたで皆さんをお迎えし、おもてなしをいたします」
 と、意味深な挨拶をしたのを思い出します。
 ウルムチの駅舎では漢人と外国人観光客用の改札と、その他の民族の改札が分けられ、漢人以外の民族が牛馬のようにぞんざいに扱われていたのも40年近くも前のことだというのに、鮮明に目に焼き付いています。
 また、ウルムチは北京より2時間も遅いというのに、無理矢理、北京と同じ時間を押しつけられていたのも忘れることができません。公式時間と生活時間が2時間も食い違う暮らしを想像できますか?
 音吉は、通訳がいない時(通訳の方はいい方でしたが、彼らが監視役であることは出国前に注意されていました)にハキムと二人きりの時に、目にし耳にしたことを尋ねましたが、ハキムはウンウンと頷くだけでした。話したいことは山とあったでしょうに。
 新疆ウイグル自治区を去る時、駅のプラットフォームに見送りに来てくれたハキムは、涙を流して音吉をハグし、耳元で、
「君は僕の兄弟だよ。いつでも我が家に帰っておいで」
 と言って連絡先を書いたメモを手渡してくれました。以来、ウイグル「我が家」に帰ることはできずにいますが、ハキムは兄であり、親友であると思い続けています。そしてブドウのたわわに実るウイグルの地は第二の故郷であるとも思っています。
 末尾ながら、習政権によるウイグル人への弾圧と民族浄化に対して、強く抗議し、強制収容所から直ちにウイグル人を解放するよう求めます。

 

注: このアルバムはタリム盆地のメケット、マラリベシュ、アワットに伝わる『ドーラン・ムカーム』です。