音吉は生まれもっての天邪鬼。
「バッハといったら『トッカータとフーガニ短調』と『G線上のアリア』でしょう!』
なんて言われると、
「ケっ」
とか言って耳を塞いじゃうようなところがありました。たぶん方々で耳に飛び込んできて飽きちゃったんでしょうね。
そんな音吉の目に止まったシングル盤がありました。ヘルマ・エルスナー(Helma Elsner, 1927 - 2000)の演奏する『半音階的幻想曲とフーガニ短調 BWV903』です。演奏時間が10分を超える大作で、とてもシングル盤では収録できない作品なんですが、曲が「幻想曲」と「フーガ」の二部構成になっているのをいいことに一曲をA面とB面に分割するという、頭がいいというべきか、野蛮というべきか、とにかくそんなレコードでした。
演奏者のヘルマ・エルスナーは、エッセンのフォルクバンク藝大で教鞭をとったり、シュツットガルトを拠点とする室内管弦楽団の一員として活動したドイツのハープシコード奏者でした。彼女は1950年代前半から60年代後半にかけてバッハのハープシコード曲のレコーディングに力を注いでいたので、件のレーコードはそのうちの一曲だったのでしょう。
ヘルマの演奏は勤勉実直の一言。日本人がステレオタイプで思い浮かべるドイツ人気質が音になった感じです。きらびやかな装飾音を排し、メトロノームのようにカクカクとリズムを刻む演奏は、フランス系奏者のそれとは対極のスタイルです。さぞかし「つまらない演奏」だと思われるかもしれませんが、ことバッハに関しては、まったくそうではないんです。
たとえば『半音階的幻想曲とフーガ』の幻想曲後半に現れる目紛しい転調は、昨年他界した音楽学者マルティン・ゲックをして「見事にしつらえられた一種の和声の迷路」と言わしめたほど特筆すべきパートなんですが、ヘルマの無骨なほど丹念な演奏が却ってこの万華鏡的な音色を引き出しているように思えてなりません。
激しい転調は、バッハの死後200年ほどを経て無調音楽を産み出し、現代音楽へ成長する契機になるんですが、やがて音吉が現代音楽にどっぷり浸るようになったのは、もしかするとバッハとヘルマ・エルスナーのおかげかも。