音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

大震災の被災地を慰問した合唱団『アヌーナ』

 東日本大震災が発生した2011年12月、放射能汚染を恐れて海外のアーティストが次々に来日を取りやめる中、アイルランドからコーラス・グループが日本を訪れ、被害の爪痕も生々しい被災地の慰問を行いました。被曝の危険性を日本人以上に強く感じていた海外の人々が被災地を訪れるのは、どれほどの信念と勇気の要ることだったでしょうか。動画は福島第一原子力発電所から40キロに位置するいわき市小名浜第一小学校で行われた慰問コンサートの様子です。

 この混声合唱団の名は「アヌーナ(Anúna)」。ダブリンを拠点として活動していた作曲家のマイケル・マクグリン(Michael McGlynn, 1964 - )によって1987年に結成され、1991年までは「An Uaithne [uənʲə] 」という名前を冠していました(以下、ゲール語については発音が難しくカタカナ表記を諦めます)。
 「An Uaithne」とは、古代アイルランド音楽形式であるGoltraí (嘆きの歌)、Geantraí (喜びの歌)、Suantraí (子守歌)の総称で、アヌーナはこれを軸に据えている合唱団なんです。
 創設者のマクグリンはこんなことを言っています。
「(アイルランドの)伝統的な歌への関心は大学時代に芽生えました。とくに中世アイルランドの音楽を探求し、それを世間に広める必要があると感じたのです」(The Journal of Music in Ireland : January/February edition 2002)

12世紀のアイルランドの歌をマクグリンがアレンジしたものです。

 スコアが残っていれば簡単にいにしえの音楽を再現できるというのは素人考えというもので、一度廃れてしまった音楽を資料から再構築するのは至難の業。マクグリンはこの地味でありながら労力を要する作業に挑戦し、アイルランドに残るカビ臭い写本から生き生きとした音楽を次々に再現していきました。
 ただ、マクグリンは次のようなことも言っています。
「誤解しないで頂きたいのですが、私はアイルランドの伝統音楽を保存することにはあまり関心がないのです。伝統主義者ではありませんから。(元歌を)そのまま歌うこともありますが、多くは(元歌から得た)インスピレーションによる新たなメロディです。アレンジしたものではなく、伝統的な形式(An Uaithne)に再び命を吹き込んだ新たなバージョンなのです」(Rossow, Stacie Lee, "The Choral Music of Irish Composer Michael McGlynn", 2010)

マイケル・マクグリンの作詞・作曲です。

 中世に存在した歌を再生することではなく、蘇らせた音楽形式と思想によるマクグリンの作曲した新たな曲を歌い、世に広める役割を果たしているのがアヌーナということでしょうか。
 マクグリンはアヌーナのメンバー構成についてもユニークな発想を持っていて、プロとして訓練されたメンバーと専門の訓練を受けていないメンバーを混ぜて得られる効果に醍醐味を感じているようです。そうすることである種のバトルが生じ、パフォーマンスは少々ラフになっても、それに勝る強いエネルギーが生じるというんです。面白い考え方ですね。より自然なコーラスになるという効果も得られるようで、こんな発言もしています。
「アヌーナのサウンドは力強く、壊れやすく、即興的かつ人間味に溢れるものです。それは以前に私が所属していた合唱団でみられた不自然な性質への抗議のようなものでしょうか」( Marrolli, Karen, "An Overview of the Choral Music of Michael McGlynn with a Conductor’s Preparatory Guide to His Celtic Mass", 2010: "Archived copy". Archived from the original on 13 March 2012. Retrieved 4 April, 2011)

 次にアップする『エルサレム(Jerusalem)』ですが、途中からオーバーダブした音響効果のように歌声がズレていく箇所がありますが、これは実際にそう歌っているんです。コンサートでこれを聴いた音吉は、あまりの美しさに総毛立ちました。作曲家としてのマクグリンの才能と、合唱団としてのアヌーナの実力に打ちのめされる思いでした。

 現在、アヌーナはメゾ・ソプラノ歌手でソロ活動も行っているミリアム・ブレナハセット(Miriam Blennerhassett, )が合唱団のマスターを務めていて、2017年にはマクグリンと人間国宝観世流シテ方能楽師第56代梅若六郎の共同監督によるパフォーマンス「高姫」をオーチャードホールで上演したり、ゲームやアニメ音楽で有名な作曲家の光田康典(1972 - )のゲーム音楽に参加するなど、日本との関係を強めています。

 今回は最後にアヌーナの『もののけ姫』を聴いていただきたいと思います。音吉は原曲よりも胸を打つ出来映えだと感じています。


 

17世紀のイギリスをを生き抜いた作曲家マシュー・ロック

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 イギリスにとって17世紀は、清教徒革命と王政復古という国家の屋台骨を揺るがす事態が続いた激動の時代でした。
 この凄惨な時代を生きた人々の中に、マシュー・ロック(Matthew Locke, 1621頃 - 1677)という名の作曲家がいました。
 音吉がマシューの音楽に触れたのは小学生のときのこと。父の持っていた音楽全集のレコードにたった一曲、収録されていた『パルティータ第7番ニ短調(Partita VII C minor)』でした。
 当時の音吉は、目を閉じて気に入った音楽に聴き入ると、誰かに頭を撫でられるような幸せを感じたんですが、この曲もそうした音楽のひとつでした。誰の演奏家かも覚えていないのですが、最近になってイタリアの古楽アンサンブル、イル・ジャルイディーノ・アルモニコ(Il Giardino Armonico)による演奏がYouTubeにアップされているのを知りました。

 マシューの出自については残念ながら詳しいことが分かっていないのですが、南西イングランドエクセター大聖堂(Exeter Cathedral, 正式名称は Cathedral Church of Saint Peter in Exeter)で少年聖歌隊員を務めていたことが分かっています。この時にオルガン演奏も含めた音楽教育を受け、大聖堂のオルガニストになりました。
 18歳のときにオランダを旅して回り、理由は分かりませんが彼の地で英国国教会からローマ・カトリックに改宗しています。これがマシューの後半生に大きな影響を与えることになるのですが、イギリスと同様にカトリックプロテスタントの対立が激化していたオランダで、彼が何を見、何を感じていたかを知る資料がないことが音吉には残念でなりません。音吉もプロテスタントカトリックの間で苦しんだ経験があるからです。はっきりしているのは、この時代を生きた西欧の人々は否が応でも旧教か新教かの選択を迫られ、どちらを選んだかによってマシューのように決まってしまったということ。実に厳しい時代でした。

『4声のコンソート集(Consorts of Fower Parts)』。演奏はヴィオールの巨匠ジョルディ・サバール(Jordi Savall)他です。

 マシューの場合は、カトリックに改宗したことでイングランド内戦(English Civil War, 1642 -1651)のさなかに、当時は皇太子だったチャールズ2世と出会い、幸いにも寵愛を受ける身となりました。
 イングランド共和国(1653 - 1658)が発足し、民衆の奢侈を厳しく禁止した護国卿(Lord Protector)クロムウェルの下で芸術家が弾圧される中、カトリック教徒でもあったマシューは、失職はおろか殺害の危機に晒される時期もありました。
  1660年の王政復古後はチャールズ2世の寵臣となり、王お抱えの宮廷作曲家となったマシューですが、彼の戦いは終わることがありませんでした。カトリック贔屓とはいえ、あくまで英国王は英国国教会の長。王の寵愛のゆえに、これに嫉妬したた非カトリックの音楽家たちからは様々な嫌がらせを受けることになったのです。

マシュー作曲の賛美歌『人の子が来るとき(When Son of Man)』。演奏は南カリフォルニア大学ソーントン古楽アンサンブル(USC Thornton Early Music)です。

 さらに音楽についてナショナリスティックな傾向の強かったマシューは、王が召し抱えた外国人の音楽家たちを快く思わず、度々、彼らとトラブルを起こした由。今なら「瞬間湯沸かし器」と言われかねない短気な性分だったようで、終生、「敵」に事欠くことはありませんでした。彼の音楽からは想像もできませんね。
 苦難の多い人生でしたが、マシュー・ロックは間違いなくイギリスに於けるバロック音楽の基を築いた音楽家でした。宮廷音楽家としてマシューの後を継いだヘンリー・パーセルは、自身の父の友人でもあり、自国の音楽を愛して止まなかったマシューの業績を称え、追悼曲を作曲しています。

パーセル作曲の『マシュー・ロックの死に寄せる悲歌(Elegy on the Death of Matthew Locke)』。テノールはマーティン・ヒル(Martyn Hill)、バスはクリストファー・カイト(Christopher Keyte)です。

 

ハービー・ハンコックで聴くクロスオーバー、フュージョン、そして今

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 音吉が10代の頃(1970年代)は、洋楽ポップスの世界、特にジャズの世界が大きく変わろうとしていた時代でした。今回は、この変化をジャズ・ピアニストで作曲家、そしてプロデューサーでもあるハービー・ハンコックHerbie Hancock, 1940 - )の音楽を通じて楽しんでみたいと思います。
 ロックは若者の反乱ともいうべきカウンターカルチャーに根ざした変化だったのに対して、ジャズは楽器の電子化という文明的なファクターに後押しされての変化であったと思います。
 1960年代には、エレクトリック・ギターやハモンド・オルガンなどは既に市民権を得た楽器でしたが、1970年前後から頭角を現してきたシンセサイザーが、それまで基本はアコースティック・サウンドであったポップスに大きな変化をもたらしたのです。
 1960年にプロ・デビューし、1963年から1968年までをマイルス・デイヴィスクインテットのメンバーとして活躍したハービーが1965年にリリースしたアルバム『処女航海(Maiden Voyage)』を聴いてみると、当時のハービーがモダン・ジャズの王道をいっていたことが分かります。

 これが6年後にどうなるかというと、1971年の『エムワンディシ(Mwandishi)』にはこんな変化が起きています。

 どうでしょうか。マイルス・デイヴィスの焼き直しじゃないかと思うぐらいマイルスの影響が色濃いですが、注目すべきは電子楽器の多用です。いかに大きな変化が60年代後半から70年代前半にかけて起きていたかが如実に分かります。
 面白いのはこれからです。変化は楽器だけに留まらなかったのです。『エムワンディシ』の2年後、1973年リリースの『ヘッドハンターズ(Head Hunters)』から "Chameleon" を聴いてみましょう。

 

「ああ、これね」
 と思った方も多いと思います。『エムワンディシ』は、楽器はともかく(一部のうるさがたは別として)普通にモダン・ジャズとして通るものだと思いますが、『ヘッドハンターズ』はファンキーなポップスというほかはありません。停滞していたモダン・ジャズの状況を打破するために電子楽器を積極的に取り入れ、ロックやラテンなどの曲想や奏法を取り入れたことによって起きた変化なんですが、このムーブメントを「クロスオーバー(Crossover music)」と呼んでいます。
 クロスオーバーはジャズに留まらず、ロックやクラシックなども巻き込んで、70年代の後半には様々なジャンルを融合した新たな音楽として「フュージョン(Fusion)」という新たなジャンルが登場します。再びハービーの音楽で1978年の『サンライト(Sunlight)』から "I Thought It Was You" を聴いてください。

 奇妙なヴォーカルが聞こえますが、これは言葉や効果音をマイクで入力しながら鍵盤を弾くと音階がつき、コーラスにもなる「ヴォコーダーVocoder)」という電子楽器を用いたものです。故ホーキング博士の用いていた人工音声と同じく、いかにも人工的な音であることを殊更に強調したような音色ですが、当時はこれが斬新で近未来的な味付けとして喜ばれていました。
 勘のいい方ならもうお分かりだと思いますが、クロスオーバーやフュージョンは、ジャズ・ミュージシャンにとってはあくまで新たなジャズを模索するための実験であって、目標ではありませんでした。一般受けするフュージョンと同時に、本丸のジャズを模索し続けていたんです。1977年リリースのハービー・ハンコック・トリオによる『The Acoustic Collection』から "Watch It" をどうぞ。

 1980年代に入ってフュージョンは、演奏する側も聴く側も飽きてしまったのか、あっという間に下火になりますが、このムーブメントに関わったミュージシャンのその後には大きな影響が見られます。マイルス・デイヴィスチック・コリアなどのジャズ・フュージョンの立役者はもちろんのこと、ビル・ブルーフォードやアラン・ホールズワースのような主にプログレッシブ・ロック畑のミュージシャンなどは、様々なジャンルがクロスオーバーした中で暗中模索したからこその音楽を世に送っています。
 最後にハービーによる、ジョン・レノンの『イマジン』へのオマージュをお聴きください。何事にもこだわりは必要だが、本当に大切なものはジャンルも人種も時代も超えて存在するのだということを、ハービー・ハンコックは音楽で伝えようとしている。音吉にはそう思えてなりません。


「私自身は決してそういう人間にならないようにと願っています。自分は何でも知っていると信じ、ほかの人たちの言うことに耳を貸すことを忘れてしまった人、年長者だというだけの理由で年下の人たちよりも何でも知っていると思い込んでいる人、私は絶対にそういう人間にはなりたくありません。そこには非常に大きな誤りがあるんです。実際、私も教えるという機会に恵まれたときに経験したことですが、先生と呼ばれる人たちの多くが、教える生徒たちよりも、むしろ教える自分のほうが生徒たちから学ぶことのほうが多いと証言していました。これはとても良いことだと思います。」

日本外国特派員協会におけるハービー・ハンコックの発言より(2003年2月20日
出典:日本語版Wikipedia[オリジナルの出典不明]

 

イスラエルとアラビア語圏で愛された歌姫オフラ・ハザ

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 イスラエルで生まれ、イスラエルで生涯を終えながらも、自身のルーツに根ざしたイエメンの歌を歌い、「イスラエルのマドンナ」と称えられた歌手がいます。
 オフラ・ハザ(Ofra Haza, 1957 - 2000)は、テルアビブで暮らすイエメン難民の貧しい家庭で生を受けました。
 9人兄姉の末っ子だったオフラは、イエメンでプロの歌手として活躍していた母(Shoshana Haza, 1920 - 2000)にイエメンの歌と歌唱法を学び、12歳で地元の劇団「ハティクバ(Shechunat HaTikva)」に入団。劇団マネージャーのベザレル・アロニ(Bezalel Aloni, 1940 - )に才能を認められて、18歳の時に歌手デビューを果たします。
 その後、兵役義務で2年間のブランクがあったものの、除隊後の1980年にファースト・アルバム『Al Ahavot Shelanu (About Our Loves)』をリリース。アルバムに収録された"Hageshem (The Rain)" や "Shir Ahava La'chayal (Love Song For The Soldier)" が大ヒットし、イスラエルのラジオ局が決める最優秀女性シンガーに選ばれました。
 イスラエル国内での人気を不動のものにしたオフラは1984年、アルバム『イエメンの歌(Yemenite Songs)』を発表し、イエメンのユダヤ人の間で伝承されてきた歌をヘブライ語アラビア語で歌いあげたのですが、この試みが後に彼女を国際的な舞台に押し上げることになります。

 1988年、『イエメンの歌』をブラッシュアップしたともいえるアルバム『Shaday』は年間ベスト・インターナショナル・アルバムを受賞し、収録中の "Im Nin'alu"(先の『イエメンの歌』に収録されたもののリメイク) はシングルカットされ、欧米のシングルチャートを席巻。アラビア語圏でもオフラの人気は一気に高まりました。

 またオフラの音楽は欧米のミュージシャンにも深い影響を与えることになり、1992年のアルバム『Kirya』にはイギー・ポップIggy Pop[本名]James Newell Osterberg Jr., 1947 - )やルー・リードLou Reed[本名]Lewis Allen Reed, 1942 - 2013)も参加しています。ちなみに『Shaday』は同年のグラミー賞にもノミネートされています。
 1997年、オフラは実業家のドロン・アシュケナージ(Doron Ashkenazi)と結婚しましたが、3年後の2000年2月23日に死去。42年の生涯でした。死因がエイズによる合併症という衝撃的なものだったため、なぜエイズを罹患したのか、そもそも死因を公表する必要があったのか等々、しばらくの間イスラエルでは、様々な憶測や著名人のプライバシーについての議論が続き、死してなお歌姫は人々の心を揺さぶり続けたのでした。また夫のドロンも翌2001年に薬物の過剰摂取により他界。オフラの死を巡るゴシップがドロンを追い詰めたのだとも言われています。

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 当時イスラエルの首相だったエフード・バラック(Ehud Barak, 1942 - )は、オフラの人生をイスラエルのサクセス・ストーリーとして称え、
「貧民街から身を起こしてイスラエルの文化の頂点に立った彼女は、イスラエルの民に偉大な足跡をのこしてくれた」
 と哀悼の意を表しました。
 先だってイスラエルアラブ首長国連邦UAE)の国交正常化が世間を驚かせたばかりですが、おそらくこれは、米国にバイデン政権が誕生し、再びイランとの核合意が復活した場合に備えての打算的な動きに過ぎないでしょう。歴史的、感情的にイスラエルとアラブ語圏が底なしの深淵で隔たれていることに変わりはないのです。
 ですが、オフラ・ハザという一人の歌手が、一時とはいえ、交わり得ないふたつの文化圏の民から愛されたことは、十字軍の時代に神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(Friedrich II, 1194 - 1250)とアイユーブ朝の第5代スルターンのアル=カーミル(al-Malik al-Kāmil, 1180 - 1238)の間で成立したエルサレムの「10年の平和」に匹敵する奇跡だったのではないかと音吉は思うのです。
 融合することなど夢のまた夢。しかし接点は必ずあり、共有し得るものがあることを、オフラ・ハザは彼女の生涯と歌を通じ、身をもって示したのでした。先のフリードリヒ2世の遺骸が纏うイスラム風の衣装に縫い付けられた言葉(おそらくはフリードリヒからアル=カーミルへの賛辞)は、オフラへの賛辞に相応しいものといえるでしょう。
「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」

 


 

チェット・ベイカー 人生の痛みに寄り添う音楽

 2015年に公開された映画『ブルーに生まれついて BORN TO BE BLUE』をご覧になった方はいますか? ウェストコースト・ジャズを代表するトランペッターでヴォーカリストチェット・ベイカーChet Baker, 本名:Chesney Henry Baker Jr., 1929 - 1988)の生涯を描いた映画です。

 チェット・ベイカーとジャズの出会いは1947年の夏、17歳のときのことでした。軍隊に入隊し、ベルリンに赴任した折に、軍の放送(Armed Forces Radio Service [AFRS])で当時流行っていたビバップ(bebop)を聴いたチェットは即、「感電」してしまいます。
 ビバップとは、ベニー・グッドマンBenny Goodman, 本名:Benjamin David Goodman, 1909 - 1986)に代表されるスウィング・ジャズ(Swing Jazz)が終わりを告げる1940年代に勃興したジャズの一形態です。音楽理論としても大変に面白いものなんですが、専門的なお話なのでここでは触れません。演奏スタイルは、まず予め決めておいたテーマを皆で演奏した後に、順番に各パートが即興で演奏していき、再び皆でコーダ(曲の終結部)を演奏して終わります。
「いまのジャズだってそうじゃん!」
 と思った人、正解です。ビバップはモダン・ジャズの元祖なんです。
 ビバップは「踊るジャズ」としてのスウィング・ジャズから「聴くジャズ」への抜本的な変化を遂げた反面、ともすれば即興演奏に重きを置きすぎて原曲を破壊してしまったり、同じメンバーでもライブ毎に出来不出来が大きくなってしまったりという不安定さが付きまといました。いちばんマズかったのは、1950年代に入った頃にはアイデアが枯渇し、即興演奏のはずなのに誰が演奏しても似たり寄ったりという袋小路に入り込んでしまったことでした。モダン・ジャズ(問題はあるんですが、ここではフリー・ジャズも含めることにします)は、こうした問題から脱却する試みから生まれたものだといえるでしょう。

スイング・ジャズの巨匠ベニー・グッドマンの演奏です。

曲名も『ビバップ』。演奏はチャーリー・パーカーです。

エリック・ドルフィーフリー・ジャズ。1963年の演奏です。

 チェット・ベイカーは、入り口こそビバップでしたが、1949年に発売されたジャズ・トランペッターの巨匠マイルス・デイヴィス(Miles Dewey Davis III, 1926 - 1991)のアルバム『クールの誕生(Birth of The Cool)』を聴いて深く共鳴し、これがジャズ・トランペッターとしてのその後の生涯を決めることになります。

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 14歳の時にトランペットを始め、軍隊時代にも楽隊で管楽器を担当していていたチェットは、除隊後の1951年から西海岸(ウエスト・コースト)のジャズ・クラブでプロとしての演奏活動を開始。マイルス・デイヴィスに影響を受けた叙情的なトランペットは、共演したアルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーCharlie Parker Jr. , 1920 - 1955)やテナー・サックス奏者のスタン・ゲッツStan Getz, 1927日 - 1991)などから高い評価を得、1954年にリリースしたアルバム『チェット・ベイカー・シングス(Chet Baker Sings)』で人気は絶頂に達しました。一時期はマイルス・デイヴィスをしのぐ人気を誇っていたほどです。

歌・トランペットともに若き日のチェット・ベイカーです。

 一方でチェットはドラッグと飲酒に沈溺する悪癖を抱えていて、これが彼の人生に破滅的な影響を及ぼすことになります。
 1950年代後半になると、チェットは麻薬使用によって当局に目をつけられ、1959年には遂に逮捕されてニューヨークのライカーズ・アイランド刑務所に放り込まれてしまいました。出所後もヘロインをやめることができず、方々で麻薬絡みのトラブルをおこして、1966年には喧嘩で前歯を折られてトランペットを吹くこともできない身と成り果てます。生活保護を受けたり、ガソリンスタンドで働たりという日々を過ごすうちに、チェットは世間から忽ち忘れ去られてしまいました。

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 しかし1973年に、チェットの才能を惜しむトランペッターでバンド・リーダーのディジー・ガレスピーDizzy Gillespie, 本名:John Birks Gillespie, 1917 - 1993)の尽力で復活。1975年頃から欧州に活動拠点を移して活躍し、再び日の目を見ることになりました。1986年と翌87年には来日公演もしています。チェットのドキュメンタリー映画『Let's Get Lost』がファッション・カメラマンのブルース・ウェーバーにによって撮影されたのもこの頃のことです。
 1988年5月13日、チェットはアムステルダムのホテルの窓から転落して亡くなりました。享年58歳。転落の原因は未だに判明していません。

 痛々しい人生でしたが、チェットの遺した音楽は、今なお彼と同じように苦しみ悲しむ人に寄り添い、共感する存在であり続けてくれています。


 

フライング・リザーズと『Money』

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 以前にジャケ買いの話を書いたことがあるんですが、今回はそれでいちばん当たった(と音吉が思っている)アーティストを紹介したいと思います。
 ご存知ない方のためにカンタンに説明しますと、ジャケ買いとは、ダウンロード販売もないレコードの時代に、曲もアーティストも知らないのにジャケット(レコードのケース)だけで善し悪しを見定めて買う、ある種の博打です。国内盤より3~5割は安く買える輸入盤がターゲットでしたから洋楽POPS専用のお遊びだと思い込んでいたんですが、国内盤でも、
「アーティストは知ってるけど曲は分からない。けどジャケットが気に入ったから買ってみよう」
 なんていうのもジャケ買いと呼んでいるみたいです。
 高校生の頃のバイト代はジャケ買いで消えてましたね。学校が終わると、とあるジャズ喫茶に直行。そこで小一時間ぐらいジャズを聴きながらコーヒーを飲んでいると、別に約束したわけでもないのに方々の高校から仲間が集まってくるんです。今のようにメールやSNSはおろかケータイすらなかった時代はこんなもんだったでしょう。
 こうして集まった仲間と輸入レコード店を回ってジャケ買い(もちろん買わないことだってあります)を楽しみ、後日、再び顔を合わせたときにレコードの情報交換をするんですが、こうして共有する情報ってバカになりませんでしたよ。当時の音楽情報誌やラジオ番組なんかよりも、半年以上は早く情報をキャッチしていましたから。
「せっかくのバイト代がもったいない」
 と思うかもしれませんが、5枚買えば3枚は当たるほどジャケ買いって当たるんです。スカだったレコードも、仲間同士で交換したり中古レコード店に売ったりするので、決して無駄遣いではありませんでした。

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 そんなジャケ買いをした中で、今でも大当たりだったと思えるレコードは何枚もあるんですが、とりわけ記憶に残っているのがイギリスのニュー・ウェーブ・バンド「フライング・リザーズ(The Flying Lizards)」です。
 "new wave"というと、本来なら新しいスタイルの音楽はすべてニュー・ウェーブなんですが、POPSの世界では、パンク・ロック以降の1970年代後半から1980年代前半にかけてイギリスで流行ったポスト・パンクやテクノ・サウンドなどを指す特殊な意味で使われています。その点、フライング・リザーズは「実験的な」という意味合いで、まさにニュー・ウェーブ・ミュージックだったと思います。
 空飛ぶトカゲという摩訶不思議な意味のフライング・リザーズは、1976年に音楽プロデューサーで作曲家のデイヴィッド・カニンガム(David Cunningham, 1954 - )が結成したバンドなんですが、正確にはバンドというよりも、その時の音楽の方向性や目的によってメンバーが替わるセッション・バンドに近いものでした。なのでメンバーは曲またはアルバムによってバラバラ。ここでは面倒なので逐一、紹介しません。
 特筆すべきメンバーはスティーブ・ベレスフォード(Steve Beresford, 1950 - )でしょうか。スティーブはフリー・インプロヴィゼーション(即興音楽)の世界で名を知られるミュージシャンなんですが、面白いのは扱う楽器です。鍵盤楽器から管楽器、ベースギターなど様々な楽器の演奏をこなす以外に、鍵盤ハーモニカや玩具のピアノ等々、およそ音の出るものなら何でも使って音楽を創りあげることができるある種の天才といっていいでしょう。
 今回アップする『Money』は、フライング・リザーズで唯一ヒットしたシングル盤で、1979年に発売されました。バレット・ストロング(Barrett Strong, 1941 - )の作曲した同曲のリメイクなんですが、スティーブ・ベレスフォードのきチープでタイトなサウンドが光るニュー・ウェーブ・サウンドに変貌しています。
 まずはバレット・ストロングによる原曲をお聴きください。

 1960年にR&Bチャートの2位に輝いただけあってカッコいいですね。
 ではフライング・リザーズによる『Money』を聴いてみましょう。

 この曲はローリング・ストーンズビートルズもカバーしていて、どれもそれなりにいいんですが、フライング・リザーズのは比較にならないぐらい個性的で、しかも歌詞の持つアンニュイでデカダンな味わいが見事に表現されています。
「お金ちょーだい。あたし、お金が欲しいの」
 以外は18禁過ぎて書けませんが、これを退廃的な社会の反映とみるのは間違いで、うわべを取り繕って社会を腐らせる大人への抗議とみるべきでしょう。ニュー・ウェーブは、サラリと聴く都会風の心地よいサウンドが多いんですが、しっかり内容に踏み込めばこれがポスト・パンクであり、カウンター・カルチャーであることがよく分かります。

 『Money』のヒット後、フライング・リザーズは3枚のアルバムを発表しましたが、デビュー・アルバムこそ全英のアルバムチャートで60位という、ニュー・ウェーブとしては記録的なヒットを記録したものの、その後は鳴かず飛ばずで、思い出したように1996年に3枚目のアルバムを出して以来は、解散したのか雲散霧消したのかも分からない状態で今に至っています。元々コアがないわけですから、それでいいんでしょうけどね。
 平成生まれの音吉の長男が高校生のときに『Money』を聴かせたことがあるんですが、
「なんだよ、これ。超ヤバいじゃん。カッケぇ!」
 と絶賛。1979年のナンバーと知って絶句していましたっけ。本当にカッコいいものは時代を超えるんですね。

 

ニコライ・カプースチンはジャズ? クラシック?

 少年の頃から物事を整理するのが苦手だった音吉にとって「分類」とか「仕分け」と呼ばれる作業は苦行以外の何ものでもありません。グラデーションがあるとはいえ所詮はひとつの塊であるものを切り分けるわけですから、これはある意味、暴挙なんだと思うんです。
 本棚やCD/DVDケースを整理するときや洗濯物をしまうとき、パソコンのフォルダに溜まった文書や画像を整理するときに、音吉は分類項目を決める段階で煮詰まってしまいます。日々アップしているブログの記事をどのジャンルに仕分けすればいいのか、という場合も同じです。

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 今回取り上げるウクライナ出身の作曲家、ニコライ・カプースチン(Nikolai Girshevich Kapustin, 1937 - 2020)は、まさに悩ましい作品を生み出す作曲家であるといえます。なので本来ならばスルーしたいところなんですが、先月(2020年7月2日)、82歳でお亡くなりになったとのこと。追悼の意味を込めて紹介したいと思います。
 第二次大戦が終わるとすぐに音楽(ヴァイオリンとピアノ)を学び始めたニコライは、やがて旧ソ連にあっては最高の音楽教育機関であったモスクワ音楽院(正式にはチャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院, Moscow Tchaikovsky Conservatory)に入学し、優秀な成績で卒業しました。
 と、ここまでは普通のアーティストが辿る道なんですが、ニコライは卒業後、国立ジャズ音楽室内管弦楽団に入り、以降もソビエト連邦テレビラジオ軽音楽管弦楽団、ロシア国立映画交響楽団 と異色の経歴を積み重ねていきました。これはモスクワ音楽院に在学中、ボイス・オブ・アメリカ(The Voice of America [VOA])で聴いたジャズに強い影響を受けたためといわれています。

ニコライ・カプースチンとオレグ・ルンドストレーム・ビッグバンド(1964)

 1950年代、ニコライはジャズ・ピアニストとしての名声を得る一方で、クラシックの五重奏団のリーダーとしても活躍。即興的なジャズの作風とクラシック音楽の構造を融合させた彼独自のスタイルは、この時代に基が築かれたといえます。
 ここで1977年に書かれた『古風なスタイルの組曲 作品28(Suite in the Old Style op.28)』を聴いてみましょう。

 まるでジャズの即興のように聞こえますが、スコアをみれば、なんとバッハのパルティータのようなバロック様式の組み合わせになっています。
 ニコライは、こうした綱渡りについて面白い発言をしています。
「私はジャズ・ミュージシャンではありません。ジャズ・ピアニストを志したことはありませんでしたが、作曲のためにはジャズ・ピアニストでなければなりませんでした。即興演奏には興味がないのですが、即興演奏をしないジャズ・ミュージシャンって何なんでしょう? 私の即興演奏はすべてスコアに書き下ろされ、そのおかげで遙かに改善されたのです」(米音楽誌『Fanfare』2000年9月号 p.93-97)
 さりげなく語っていますが、普通のジャズ・ミュージシャンやファンがこれを読んだら激怒する人がいるでしょうね。ジャズの即興性について嫌らしいことを言っているからです。その場、その場でのアドリブが本来の意味なんですが、たしかに作曲家にとって曲を生み出す行為自体は即興と等価。それをスコア化して自分の外に投げ出して検証すれば改善される道理ではあります。主張の是非はともかくとして、普段と違う視点から再考することの大切さを音吉は感じます。 

 Impromptu No. 2 Op. 66 ニコライ本人の演奏です。

 ニコライの作品は近年、とみに若手の演奏者が好んで演奏するようになったせいか、当たり前のように巷で名前が聞かれるようになりました。気がつくようで誰も気づかなかった孤高の道を歩んだニコライにとって、若い世代の間で高まる人気は、天国への階段を飾る花束になったに違いありません。謹んでご冥福をお祈りします。

小学6年生の山本蒼真さんによる『Sonatina op.100』です。

ニコライも喜んでいることでしょう。