音楽なら入れ食いですが何か?

野良ネコ音吉のジャンル破壊音楽ブログ

映画『太陽の帝国』と子守歌

 映画の劇伴曲に強い印象を受けたことはありませんか? 劇伴曲とは映画やTVドラマの劇中で流れる音楽のことです。
 音吉はスティーブン・スピルバーグ監督の『太陽の帝国Empire of the Sun)』(1987)で流れていた劇伴曲に強い印象を覚え、折に触れて曲名を調べていたのですが、それが何であるかを知ったのはつい最近のことです。
 まず映画について触れましょう。舞台は日中戦争時の上海。イギリス租界で生まれ育ったジェイミー(ジム)少年は、日本軍が上海を占領した際に両親とはぐれ、捕らえられて蘇州の捕虜収容所に送られますが、絶望と恐怖のさなかにあっても生きる知恵と希望を見出し、やがて両親と再会するまでが描かれています。
 音吉が知る限りでは、件の劇中曲は、ストーリーが転換する大切なシーンで少なくとも二度、使われています。映画の冒頭でも流れていたような気がするんですが、それは忘れちゃいました。
 音吉が覚えている一度目は、零戦に憧れていたジムが、特攻隊が出撃する際に敬礼をしながら歌うシーンです。

 そして二度目は、両親と再会するラストシーンです。

 映画を観ていない方でも胸を打つシーンではないかと思います。映画で使われているのは、現在はミュージカルで活躍しているジェームズ・レインバード(James Rainbird, 1975 - )の歌声です。
 この印象深い曲の名は『スオ・ガン(Suo-Gân [sɨɔɡɑːn])』。ウェールズ語で子守歌(suo = lull ; cân = song)のことです。採譜されたのは19世紀初頭。歌詞はウェールズ民俗学者で詩人のロバート・ブライアン(Robert Bryan, 1858 - 1920)によって採録されましたが、誰が作詞・作曲を行ったかは伝統曲の常で不明です。発音の難しいウェールズ語の歌ですが、美しいメロディゆえにキリスト教諸教会では聖歌・賛美歌として歌われています。とか言っときながらカトリック教徒の音吉は知りませんでしたが。

 歌詞も素朴で美しいです。歌の意味が分かると、スピルバーグ監督が二度のシーンでこの歌を採用した意味もよく分かって、むしろ歌詞が心に刺さって痛みを覚えます。戦災に為すすべもなく怯える子どもたちや、戦争のない社会に生まれ落ちながら親の放置で落命する子どもたち。こんなニュースは見たくも聞きたくもありませんが、現実を直視し、立ち向かうために大人が心に刻みつけなければならないのは、こんな歌なのかもしれません。
 最後に、歌詞とカイ・トーマス(Cai Thomas, 2007 - )少年の歌をアップします。

 

Suo Gan(子守歌)

Huna blentyn ar fy mynwes,
Clyd a chynnes ydyw hon;
Breichiau mam sy'n dynn amdanat,
Cariad mam sy dan fy mron;
Ni chaiff dim amharu'th gyntun,
Ni wna undyn â thi gam;
Huna'n dawel, annwyl blentyn,
Huna'n fwyn ar fron dy fam.

愛しいわが子よ、
心地よく、温かい母の胸に抱かれてお眠り。
母の腕はあなたを力強く抱く。
母の愛は真。
眠りを妨げるものはない。
ひとりぼっちになることもない。
安らかに眠れ、愛しい我が子。
母の胸で静かにお眠り。

Huna'n dawel, heno, huna,
Huna'n fwyn, y tlws ei lun;
Pam yr wyt yn awr yn gwenu,
Gwenu'n dirion yn dy hun?
Ai angylion fry sy'n gwenu,
Arnat ti yn gwenu'n llon,
Tithau'n gwenu'n ôl dan huno,
Huno'n dawel ar fy mron?

今宵は安らかにお眠り。
穏やかな寝息を洩らし深くおやすみ。
なぜ微笑んでいるの?
優しく微笑みながら眠っているの?
天使たちが微笑みかけているの?
だから楽しげに微笑み返し、
母の胸で静かに眠っているの?

Paid ag ofni, dim ond deilen
Gura, gura ar y ddôr;
Paid ag ofni, ton fach unig
Sua, sua ar lan y môr;
Huna blentyn, nid oes yma
Ddim i roddi iti fraw;
Gwena'n dawel yn fy mynwes.
Ar yr engyl gwynion draw.

怖がらないで、
コツンコツンとドアを叩くのは
ただの葉っぱ。
怖がらないで、
ザブンザブンと海辺でざわめくのは
ただの波音。
おやすみ、わが子よ。
怖がるものなど何もない。
清らかな天使たちが見守る
私の胸で穏やかに微笑みなさい。

 

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アイスランドのロックバンド『シガー・ロス』

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 シガー・ロスSigur Rós)というロック・バンドをご存知でしょうか?
 1994年にアイスランドレイキャヴィクで結成され、コア・メンバーのヨンシー・ビルギッソン(Jón Þór “Jónsi” Birgisson, 1975 - )とゲオルグ・ホルム(Georg “Goggi” Hólm, 1976 - )他一名の3名でスタートし、現在はヨンシーとゲオルグの2名で活動を続けています。
 バンド名は結成日に誕生したヨンシーの妹の名前を貰ってつけられています。ちなみに "Sigur Rós" とはアイスランド語で「薔薇」のこと。
 別に「薔薇」とは関係ないんですが、ヨンシーは自身がゲイであることをカミングアウトしていて、このことが曲によっては色濃く反映されています。

 シガー・ロスを初めて聴いた方は、
「これがロック?」
 と思うかもしれませんね。たしかにフツーに思い浮かべるロックとは違う作風ですし、この曲の場合は完全にインストルメンタルです。
 ジャンルの迷宮には入り込みたくないのですが、さらりと踏み込みますと、シガー・ロスは、イギリスの音楽ジャーナリストで作家のサイモン・レイノルズ(Simon Reynolds, 1963 - )が1994年にカテゴライズしたしたポスト・ロック(Post-rock)に属しています。具体的には、例えばギターを「ジャンジャカジャカジャカ♪」みたいなリフレインやコード進行のためではなく、音色・音響を創生するツールとして用いる点に注目して「従来のロックと変わらない楽器構成なのに、それまで(1994年時点)とは違う音作りをしている」のがポスト・ロックだということでしょうか。
 これはヴォーカルについても言えることで、歌をメッセージとして用いるのではなく、他の楽器と変わらず音の一部とみなすような傾向が顕著です。これが極端になると、先の曲のようにヴォーカルも入ってはいますが、基本、インストルメンタル・ミュージックになっちゃう。

 だから、というわけではないんでしょうけれど、シガー・ロスの発表するミュージック・ビデオは質が高く、内容的にも下手な映画以上の出来で、音吉は新曲が出るたびに観賞を楽しんでいます。歌詞は大切なものなんですが、時として言葉は音楽への集中を妨げ、音楽が与えてくれる広大なイマジネーションを柵で囲ってしまいます。彼らがそれを意図しているかどうかは分かりませんが、結果的に言葉の呪縛から音楽を解き放とうとしているように思えますし、それで生じるメッセージ性の欠如を映像で補完していると音吉は感じています。

 何もかもが「北」を想起させるシガー・ロスですが、彼らのサウンドや映像には、凜とした冷気の中で生きる人々のぬくもりや哀楽がシンプルに感じられます。
 言葉を軽視するわけではないけれど、言葉の力に頼らずに商業主義という断崖から身を投げ、リスナーの支持を得て飛翔したシガー・ロスは、今も変わらず「音楽にフィットする意味不明なボーカルの形」をひっさげて、静かに暴れ続けています。

 

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ミューズに見初められたフランコ・ファジョーリ

f:id:riota_san:20200830121747j:plain イタリア・オペラを観ると、
「こりゃ日本でいえば歌舞伎か新国劇ってところだな」
 と音吉は思うんです。オペラの化粧も、時代を遡るほど歌舞伎の隈取りにも似た独特のものになりますし、熱狂的に「ブラボー(ブラバー、ブラビー)」と声のかかる様は、「成駒屋っ」「松島屋っ」と絶妙なタイミングで声をかける大向こうにそっくりです。
 内容的にも、歌舞伎や新国劇が仇討ちや悲恋ものなど明確なタイプ分けができるのと同じく、その国の人々の心のツボともいうべき浪花節に沿った類型化がオペラにもみられます。大衆文化には、日本の時代劇にみられるようなステレオタイプが必須なのかもしれません。

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 今回は18世紀に活躍し、生前は超売れっ子でありながら現代ではほとんど名を聞かないオペラの作曲家レオナルド・ヴィンチ(Leonardo Vinci, 1696 - 1730)の『アルタセルセ(Artaserse)』を取り上げたいと思います。
 ルネサンスの天才と一字違いの紛らわしい名前をもつレオナルドは、「サンピエトロ・ア・マジェラ音楽院(Conservatorio di San Pietro a Majella)」の前身である「貧しきイエス・キリスト音楽院(Conservatorio dei Poveri di Gesù Cristo)」で音楽を修め、その後は瞬く間にオペラの作曲家として名が知られるようになり、一時は先日紹介したカストラートのファリネッリのために曲を作るなど人気の絶頂にあったんですが、病気にでもなったんでしょうか。1728年にナポリ修道院に引き取られ、翌々年1730年に貧困のうちに亡くなりました。毒殺説もあるようですが、経緯と事の真偽は分かりません。出自も含めて謎が多い上に、売れっ子ならでの風説が付きまとっているので分からないことだらけ、という人物ではあります。
 34年という短い人生の割には多作家なんですが、とくに初期の作品で現存しないものや、残っていても断片的なスコアが多いのもレオナルドの特長と言えます。

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 19世紀にはすっかり忘れ去られてしまったレオナルドですが、死の年に作曲された『アルタセルセ』が2012年に再演されて以来、再評価と研究が進んでいます。このオペラは、レオナルドと同じく売れっ子だった詩人にしてオペラの台本作家でもあったピエトロ・メタスタージオ(Pietro Metastasio, 1698 - 1782)と連携して作った作品で、レオナルドの死後も暫くは上演が続いたほどの人気オペラでした。
 内容は、古代ペルシャ王アルタクセルクセス1世(Artaxerxes I[在位]465BC - 424BC)を題材にした悲恋と仇討ちという超欲張りなストーリーで、カストラートの記事でも書いたように、当時は女性が舞台に上がることをヴァチカンが禁じていたため、女性の役目はカストラートと呼ばれる去勢した男性歌手が担っていました。
 2012年の再演では、現代にあっては最高峰のカウンター・テナー歌手のフランコ・ファジョーリ(Franco Maximiliano Fagioli, 1981 - )がアルタセルセの友人アルバーチェを熱演して観客を沸かせました。歌詞が分かるとフランコの手振り身振りのもつ意味も分かり、快演ともいえるフランコの素晴らしさがより深く理解できると思います。

Aria: Vò solcando un mar crudele
アリア:私は冷酷な海で

原: Vò solcando un mar crudele Senza vele e senza sarte,
日: 私は冷酷な海で帆も縄も無しで航海しています。

原: Freme l'onda,
日: 波が震え、

原: il ciel s'imbruna
日: 空が暗くなり、

原: Cresce il vento
日: 風が強まり、

原: e manca l'arte
日: 術は無くなり、

原: E il voler della fortuna Son costretto a seguitar.
日: そして幸運に頼る他はありません。

原: Infelice in questo stato Son da tutti abbandonato
日: 惨めなことに私は皆から見捨てられています。

原: Meco sola l'innocenza Che mi porta a naufragar.
日: 身の潔白だけが私を難破から逃れさせてくれるのです。

 

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近代オペラの基となったカストラート

f:id:riota_san:20200827140141j:plain 映画『カストラート(Farinelli Il Castrato)』はご覧になりましたか? ベルギーの監督ジェラール・コルビオ(Gérard Corbiau, 1941 - )が1994年に製作した映画で、18世紀のカストラートファリネッリ(Farinelli[本名]カルロ・ブロスキ(Carlo Broschi), 1705 - 1782)の生涯を描いています。
 カストラート(castrato)とは何でしょうか?
 "castrato" はイタリア語ですが、語源のラテン語 "castratus" は「去勢された」と言う意味で、英語でも宦官のことを説明するときに "A eunuch is a man who has been castrated to serve a specific social function." なんて具合に使われます。
 音楽で言うカストラートとは、去勢された歌手を指します。第二次成長期を迎える前に去勢を行うと変声期が訪れないことは古くから知られていて、ボーイ・ソプラノを維持するための手段として幼去勢が行われたんです。今では信じられないことですが。

歌声はソプラノ(女性)とカウンターテナー(男性)の合成です。

  何故こんなことをしたんでしょうか。諸説入り乱れてはいますが、記録として辿れるのは1562年にスペインから「貢ぎ物」としてヴァチカンに送られたカストラートの存在です。
 聖職者はおろか典礼の執行においても女人禁制だったローマ・カトリック教会では、古くは8世紀から少年と成人男性を教会付の歌手として訓練するための学校(schola cantorum, 歌手たちの学校)を設けるなど、男性歌手の育成に力を入れてきたのですが、ボーイ・ソプラノには声量が劣るという決定的な欠点がありました。
 一方でカストラートは、去勢によって声帯の成長は止まって声変わりはしませんが、成長ホルモンが止まるわけではなく、身体は普通に成長して成人男性の骨格や肺活量と変わらないので声量も問題とならず、豊かなトーンと非常に広い声域で歌うことができました。よってカストラートの存在を知ったカトリック教会が注目しないはずもなく、教皇クレメンス8世(Clemens Ⅷ[在位]1592 - 1605)は、システィナ礼拝堂付聖歌隊のオーディションで少なくとも二人のカストラートを採用しています。これがローマ・カトリック教会による「公式」のカストラート公認第1号[及び第2号]です。
 ただクレメンス8世に先立つシクトゥス5世(SixtusⅤ[在位]1585 - 1590)が、1588年に「女性歌手および女優追放」令を発布し、女性が教皇領の劇場舞台に出演することを禁止したことが、いわゆる「女形」としてのカストラートが欧州に広まったきっかけであるといえるでしょう。

 こうして市民権を得たカストラートは、主にイタリアの音楽学校で組織的・体系的に養成されるようになり、彼らの養成課程から、とくに近代オペラで用いられるベルカント(Bel Canto)唱法が生まれます。またこうした音楽学校の講師にはスカルラッティ(Alessandro Scarlatti, 1660 - 1725)などの有名な作曲家が名を連ねていて、カストラートが現代に続く音楽の流れに与えた影響を垣間見ることができます。
 音楽院の教師にはオペラ作曲家で声楽教師でもあったポルポラ(Nicola Porpora, 1686 - 1768)がいますが、彼こそ映画『カストラート』の主人公であるファリネッリを育てた人物でした。
 ファリネッリは、おそらく古今を通じてナンバー・ワンのカストラートと言っていいでしょう。音域が3オクターブ半もあったといわれ、歌声を聞いた女性は、かつてのビートルズ・ファンのように失神者が続出したそうな。1737年にはスペイン国王フェリペ5世(Felipe V, 1683 - 1746)に招かれ、王の寝室で歌う(なんで寝室だったのかは不明)栄誉に浴し、晩年はスペイン王室から莫大な年金を支給されて優雅に暮らしたとのこと。全盛期のカストラートの人気ぶりがうかがわれますね。

 しかしファリネッリの存命中からカストラートの足下が揺らぎ始めます。
 教皇ベネディクトゥス14世(BenediktⅩⅣ[在位]1740 - 1758)が去勢手術を行った人を破門に処し、身体を人為的に変える行為としての切除(カンタンに言って去勢)を禁じるおふれを出したんです。違う人物とはいえ、公認しておきながら「今更なんだ!」のお話なんですが、実は、かねてから神から授かった身体を切除するというという行為は非合法とされていて、むしろクレメンス8世が変だったと言うべきなんです。
 カストラートとして成功すれば莫大な富と名声が得られたために、我が子を去勢する親が後を絶ちませんでしたが、カストラートの全盛期ですら大っぴらに「去勢した」とは言えず、「先天性の奇形だった」「落馬して局部に怪我をし、切除せざるを得なかった」「豚に食いちぎられた」なんて言い訳を周囲にしなければならないほど、一般的に去勢はタブーでした。
 よって去勢しながらカストラートになれなかった9割がたの人々は、その後の人生を社会の日陰者として生きる他はなく。教皇クレメンス14世(ClemensⅩⅣ[在位]1769 - 1775)が、人工的な声をもたらすのを目的とした歌手の養成を禁じるという明確にカストラートを禁じるおふれを出した後も、子どもを去勢する親は後を絶たちませんでした。やむを得ずクレメンス14世はシクストゥス5世の出したおふれを取り下げ、女性が教会で歌い、劇場の舞台に立つことを許可し、以降、徐々にカストラートは衰退に向かいます。身勝手というほかはありませんが、これが歴史というものなんでしょうか。

最後のカストラート、アレッサンドロ・モレスキの歌声。カストラートを知る貴重な資料です。

 1902年、教皇レオ13世(LeoⅩⅢ[在位]1878 - 1903)が、「カストラートを永遠に追放する命令」に署名。劇場に居場所を失い、教会で細々と歌い続けていたカストラートでしたが、最後のカストラート、アレッサンドロ・モレスキ(Alessandro Moreschi, 1858 - 1922)が1913年にシスティーナ礼拝堂を去り、カストラートの歴史は終わりを告げたのでした。
 ゴージャスで楽しいイタリア・オペラですが、その華やかな唱法の成立の陰には、大人の欲得で去勢され、過酷なトレーニングを受けた少年たちがいたのです。

ナゲシュワラ・ラオとヴィーナ

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 1960年代の後半から1970年代の前半にかけて、インドは一部の若者にとっては憧れの国でした。
 これは当時、ベトナム戦争公民権運動などで露呈した社会的・国家的な矛盾に対するカウンターカルチャーとして脚光を浴びたヒッピー(Hippie, Hippy)・ムーブメントの影響だったと思います。
「どうしてヒッピー文化って言わないの? その頃はそう言ってたと思うけど」
 そう思う人がいるかもしれません。たしかに日本ではヒッピーを文化として捉えていました。ヒッピーの好む音楽や思想、フリーセックス、ドラッグ解放、エコロジーヴィーガニズムをファッションとして受容していたわけですから、たしかに文化という括りでよかったんでしょう。
 しかし御本家のアメリカ、そしてその影響を強く受けた欧米の若者にとって、ヒッピーはファッションではなく生き方であり、実践的な運動(ムーブメント)だったんです。そして、そのように生きる人のことをヒッピーと呼んだわけです。
 ヒッピーにとっての哲学的・宗教的な芯は、体制側のキリスト教や西洋哲学であってはなりませんでした。そこで注目されたのがインドだったわけです。
 フツーのティーンだった音吉も、世の風潮に乗って高校生の辺りからインドの文化、特に伝統音楽に惹かれるようになりました。ビートルズ繋がりでいけば、以前に取り上げたラヴィ・シャンカルのシタールでしょう。シタールの華やかで幻想的な音色は、それまで聴いたことのなかった人にもアピールするだけの魅力がありますから。

 でもインドと音吉の出会いはシタールじゃありませんでしたよ、並みの高校生じゃなかったですから。なんていうのは大嘘です…
 実はラヴィ・シャンカルのシタールが聴きたくてレコード店に行ったんですが、あいにくなかったんです。仕方がなしに民族音楽のコーナーを物色したら、
「ん、シタールあるじゃん!」
 シタールらしき楽器を持ったカッコいいおじさんが写ってるし、しかも一枚1,000円で超お買い得! ラヴィ・シャンカルじゃないけど、こーなったら誰でもいいや。と、ロクにライナーノーツも読まずに購入して家に持ち帰りました。

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 自室にこもってビニール袋からジャケットを取り出し、帯を剥ぎ取ろうとしたその時、
南インドの音楽 ~ナゲシュワラ・ラオのヴィーナ」
 と、太ゴチでデカデカと載ったタイトルの上に、小さな文字で略説が印刷されているのに気付きました。
ビートルズジョン・コルトレーンに関連して人々になを知られるようになったのが、北インドシタール奏者ラビ(ママ)・シャンカルだが、インド音楽を深く知るようになればなるほど、北よりも南インドの音楽、シタールよりもヴィーナの音楽にひかれる人が多い。そんな、真に深いインド音楽を追究する人たちに心から満足していただけるのが、ナゲゲシュワラ・ラオのヴィーナの演奏であるに違いない」
 嗚呼、やっちまった… ヴィーナって音楽の名前じゃなくて楽器だったんかいっ! ライナーノーツぐらい読んでから買え(怒)> オレ
 それでも買っちまったものは仕方がありませんから、憎しみを込めてレコードに針を落としました。
「ん?」
 たしかにシタールのようなキラびやかな音色ではありませんが、その代わりに音に深みがあり、ズシンと心に響くものがあります。レコードの両面を聴き終えて残ったのは、良質の音楽に触れてこその満足感でした。 

音吉の買ったレコードに収録されたナゲシュワラ・ラオのヴィーナです。

 ヴィーナ(वीणा[英]Veena, [独]Vina)という名称は本来、古代インド音楽の弦楽器を指す総称で、その意味ではシタールもヴィーナのひとつといえますが、現在ではヒョウタンや中空の木材を用いた共鳴器を70センチほどの竿で繋いだ形になっている弦楽器のことをヴィーナとしています。弦は7本で、ピックで弾いて音を出します。
 最初に買ったレコードのおかげで、音吉はヴィーナを南インド独特の楽器だと思い込んでいたんですが、実際は南北双方でヴィーナは用いられているようです。ただし北インドではビーン(Bin)と呼ばれることもあり、フレットの数も違います。装飾も違うので、知っている人ならヴィーナがどちらのものかがすぐに分かるとのこと。
 また音楽の種類も違っていて、北のヴィーナはイスラム王朝の宮廷で発達したヒンドゥスターニー音楽(Hindustani classical music)であるのに対し、南のヴィーナはカルナータカ音楽(Carnatic classical music)と呼ばれるヒンドゥー教の宗教観の下で発達したものです。今回はヴィーナのお話なので曲はアップしませんが、カルナータカ音楽では声楽が重視されている由。即興がメインなのはヒンドゥスターニー音楽と同じですが、演奏に際して厳密な規則があるのもカルナータカ音楽の特徴だそうです。そのうち両者の音楽を聴き比べてみたいですね。
 実は形状や奏法の違いによってもっとたくさんの種類があるんですが、あまりに専門的で話がややこしくなりますので、種類の話はこの辺にしておきます。
 音吉の買ったレコードに収録されていたのは、カルナータカ音楽のヴィーナ奏者として伝説的な存在のモッカパティ・ナゲシュワラ・ラオ(Mokkapati Nageswara Rao, 1926 - 1993)による演奏で、彼は日本でレコーディングを行ったりもしています。
 日本人のヴィーナ奏者である的場裕子さんは、インドで「ラオ先生」にレッスンを受た時のエピソードをご自身のブログで紹介しています。的場さんのブログは、ヴィーナについての魅力と専門的なお話が分かりやすく、楽しく綴られています。興味のある方はぜひご覧ください。的場さんのブログはこちら→ Yuko Matoba Website - Japanese

ミュージシャンに大人気のミュージシャン ゲイリー・ハズバンド

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 2018年8月1日は、音吉と妻さんにとって忘れられない日となりました。名古屋のジャズ・クラブ「STAR EYES」で、ゲイリー・ハズバンド(Gary Husband, 1960 - )のソロ・ライブを観る機会に恵まれたからです。
 当日の夕方は曇っていて風も吹かず、むっとする熱気が街に籠もっていました。早めにクラブにたどり着くと、入り口の脇にしつらえてあるベンチにちょこんと座り、レターサイズほどの紙に何かを書き込んでいる初老のおじさんがいました。音吉は一見してゲイリー本人だと気付き、声をかけたい衝動に駆られたんですが、たぶんライブの準備をしているんだろうと思い止まりました。暑いせいでしょうか、ときおり少し赤らんだ顔を上げて前方を見つめ、再び紙に向かう様子が印象的でした。身なりや立ち居振る舞いが地味で、顔を知らなければゲイリーに同行してきたスタッフと勘違いしたかもしれません。
 見た目にはその辺のおじさんと変わらないゲイリーですが、彼はドラマーにしてピアニストという極めてユニークな存在で、多彩な才能のゆえに数多くの著名なミュージシャンに請われてセッションを重ねてきたもの凄いアーティストなんです。
 さぞや英才教育を受けて育ったのかと思えば、世のフツーの子供たちと変わらず、ゲイリーもピアノのレッスンを通じてクラシック音楽を学び始めまました。
 実際に彼の演奏を見て納得しましたが、たしかに彼のタッチはクラシック・スタイルでした。ここで詳述はしませんが、クラシックとジャズでは弾き方が違うんです。同じ楽器なのに面白いですね。
 奏法の違いは、当然のように生み出される音色にも現れます。繊細でグラデーションに富んだゲイリーのピアノは、彼がピアノを学ぶ経緯の産物だったんでしょう。

盟友アラン・ホールズワースへの追悼盤『Things I see』のダイジェストです。

 幼いゲイリーはやがてドラムに興味を持ち、ピアノと並行してドラムもレッスンを受けるようになりました。彼はドラム演奏の指導についても高い評価を得ているんですが、正規のレッスンを受けたのは初めだけ。後はプロに出会うたびに都度の指導を受ける程度で、基本は独学でした。それでも13歳の頃には、方々からお声がかかり、公の場でピアノとドラムの演奏を行うようになります。
 イギリスきってのビッグバンド・リーダー、シド・ローレンス(Syd Lawrence, 1923 - 1998)に招かれてドラムを叩いたのは1976年のこと。ゲイリーは16歳でした。

 そして18歳の時に故郷のリーズ(Leeds)を離れてロンドン市民となったゲイリーはプロとしてのキャリアを本格的にスタートさせます。
 1998年には初のソロ・アルバム「Diary of Plastic Box」をリリース。断続的に個人のバンドを結成することはあってもソロ活動が基本で、ドラマーのビリー・コブハム(Billy Cobham, 1944 - )、ギタリストのアラン・ホールズワースAllan Holdsworth, 1946 - 2017)やジェフ・ベックJeff Beck, 1944 - )、トランペッターのランディ・ブレッカー(Randy Brecker, 1945 - )などのアーティストとセッションを行いながら現在に至っています。

 特筆すべきはアラン・ホールズワースとの出会いで、1979年からアランが死を迎える2017年までの30年以上にわたって、二人は互いを音楽のパートナーとして認め合い、主だった活動を共に行いました。
 2014年に音楽ライターの山崎智之氏がおこなったインタビューで、ゲイリーはアランについてこんなことを言っています。

「彼は昔から凄いテクニックを持っていたけど、さまざまな人生経験を積んできたことで、そのギター・プレイにも人間的な厚みと奥行きが生まれたと思う。アランとの活動が、自分にとって本格的なキャリアのスタートだと考えているんだ。それ以前にもビッグ・バンドで3枚ぐらいアルバムを出したし、セッション・ワークはやってきたけど、扉を開け放ったのは『I.O.U.』(1982)だったと思う」

(出典:ゲイリー・ハズバンド・インタビュー/超一流ドラマーが語る、超一流ミュージシャン論 https://www.yamaha.com/ja/journalist/news.php?no=15016

 アラン・ホールズワースについては後日、別個にスレッドを立てますね。過去半世紀に遡ってみて、アランは間違いなく偉大なギタリストの一人であると思いますので。日本では一般的にはあまり知られていないんですが、プログレッシブ・ロックのファンやギタリストを志す人にとっては、まさにレジェンドなんです。
 ゲイリーが後進の指導に力を入れていることは先に紹介した通りですが、これはギターの指導に熱心だったアランの影響なんじゃないかと音吉は想像しています。アランの思いをバトンタッチしていきたいという思いのゆえだすれば、創作とは違う意味で多大な労力を要する教育や指導に多忙なゲイリーが腐心するのも納得がいきますから。

 クラシック、ジャズ、フュージョンプログレッシブ・ロックと様々なジャンルを己の血肉として新たな境地を切り開いたゲイリーの音楽は、ボヘミアン・グラスのように透明感が高く、繊細です。ドラミングでさえ、ビートの効いた力強さというよりは、雨のしずくが軒下で奏でるような細やかな美しさに満ちています。

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 画像のように様々なキーボードとバラバラのドラムセット、エフェクターシーケンサーなどのデバイスが狭いスペースに配置してのソロ演奏。どうすればこのコックピットみたいな空間からあんなサウンドが生まれるのか不思議でなりません。
 この一見フツーのおじさんは、正真正銘の音の魔術師に違いないと音吉は信じています。

バンド『プラスチックス』の軌跡

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 ふと思い出して、高校時代に買ってホコリを被っていた楽器を引っ張り出していじってみた。SNSでそれを呟いたら、
「あー、自分もやったことあるわ」
 という友達のコメがちらほらと。気まぐれに、
「一緒に楽器で遊んでみね?」
 と声をかけたら、たちまちギターにベース、キーボード、ドラムと、形だけはバンドのメンバーが揃った。
「スタジオ借りよう!」
 と提案したものの、皆からあっさり却下。
「なに血迷ってんの。オレら、ほとんどスキルないし。ついでに金もないし」
 ド正論。身の程を知り、ドラマーの家に集まることにした。
 こうして楽器とメンバーを集めてみたものの、レッド・ツェッペリンエアロスミスのナンバーに挑戦し忽ち玉砕。楽器の音が出せることと弾けることは根本的に違うことを痛感。4ビートでCメジャーの曲しかできないんだったわ、オレら。
 そこで何となくコード進行とリズムだけを決めてギグって遊んでみる。すると笑えるほどへにゃへにゃしたサウンドながら、それなりの曲になることが判明。コピーライターで食ってるメンバーの作詞が鋭く、光っていたので、なぜか歌だけは完成度高し。第一、楽しい。
 せっかく作った曲なら誰かに聴いてもらいたいと無謀にもYouTubeに投稿したら、これが大当たり。反響に目を留めたインディーズの音楽事務所からお誘いがかかり、
「どーせすぐ飽きられると思うんで、副業ならお受けします」
 とダメ元で言ってみたら快諾されてしまった。とゆーわけで、オレらはミュージシャンになったのさ。めでたしめでたし。どんとはれ

 まあ、これは作り話なんですが、音楽とは無縁だったメンバーで集まり、檜舞台に立った伝説的なバンドが本当にあったんです。
 1970年代の末に、気がついたら存在していて、
「こいつら何者?」
 と思った頃には消えていた感じでしょうか。

 「プラスチックス」といって、ヒカシューP-MODELと並んでテクノ御三家のひとつに数えられていたバンドです。
 スタイリストだった佐藤チカ(誕生年不明)とイラストレータ中西俊夫(1956 - 2017)、グラフィック・デザイナーの立花ハジメ(1951 - )がコアとなって結成され、後に四人囃子でベースを弾いていた佐久間正英(1952 - 2014)と作詞家の島武実(1946 - 2019)が加わって今、知られるようなメンバー構成になったプラスチックスですが、2年あまりの短い活動期間中に、日本のみならず、海外のアーティストからも注目を集めた凄いバンドでした。
 表面的な音の感じからテクノ・ポップに分類されていますが、音吉はフツーのポップスなんじゃないかと思っています。試行錯誤の音作りの過程で、ドラムではなくリズムボックス(様々な音色で複雑なリズムを刻める電子楽器)を用いた結果、テクノっぽく聞こえただけのことで。
 プラスチックスは、B-52'sやトーキング・ヘッズなどと共演し、三度のワールドツアーを行うなどの華々しい活動を成し遂げながら、日本では東京というローカル以外では見向きもされずに1981年には解散してしまったんですが、その事実こそがプラスチックスの本質を物語っていたのだと今になって思います。
 冒頭の作り話のようにメンバーが幼馴染みだったわけでもなければ、何となくバンド活動を始めたわけでもありません。しかし佐久間以外のメンバーが音楽について専門外だったことは同じでしたし、歌詞に強いインパクトがあったことも一緒でした。

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 門外漢が生み出したものへの、当時の一般的な業界人とリスナーの評価。これこそがプラスチックスの妙ちくりんな活動履歴に影を落としていたものだと音吉は思います。
 ラーメン道だ、接客道だと、なんでも「道」にしてしまい、その道を極めなければ他人様に認められるようなプロにはなれない。昭和の日本は、そんな「当たり前」が世間一般を支配していた時代だったと思います。専門外の人間がこしらえたものは、それがどんなに価値あるものであっても「伊達や酔狂」の域を出ない、と。

f:id:riota_san:20200824191919j:plain  プラスチックスに価値を見出したのが海外のアーティストやリスナー、そして東京で活躍するアーティストや業界関係者だったのは、日本社会の「当たり前」から自由だったということに尽きると思います。その意味では、プロ意識が逆に希薄になってしまった現代の日本にプラスチックスが登場しても、逆に見向きもされなかったかもしれませんね。時宜云々でいえば、昭和なら早過ぎ、現代なら遅過ぎたバンドだったんでしょう。
 ひとつ確実に言えるのは、世の中には短くも輝きを放つ才能があっていいということです。百億年をかけて輝き続ける恒星も、一瞬で命を終える流星も、宇宙にあっては等価であり、本質は何ら変わることがありません。
 自然現象とは本来、繋がりのない人の感情にあっても同じことがいえます。超新星爆発の疑いがあったオリオン座のベテルギウスも、一筋の光条を放って首都圏を騒がせた火球も、人の心に宇宙の神秘を感じさせる点では等価です。同様に、数百年にわたって愛され続けるクラシックの名曲も、ある世代だけが知る流行歌も、人の心に共感をもたらす点では価値に軽重などないのです。
 昨年で結成後40年目となったプラスチックス。メンバーの大半は早々と鬼籍に入り、彼らの活躍は既に過去のものとなっています。リバイバル・ヒットをしたわけでもなければ、若者たちのレジェンドに祭り上げられたこともありません。
 それでも音吉は思うんです。彼らは未だに尖っていてカッコいい。そして日本のアーティストにあって「オリジナリティ」を確立できた数少ないアーティストであったと。